音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

原発問題をめぐる道徳的な態度とは〜「原発収束作業の現場から」を読んで〜

東日本大震災から一年が経ちました。あの日の私はシェフィールドの学生寮にいたのですが、朝、韓国の友人からの震災の一報で飛び起きました。それからまる一日は、家族の安全が確認できるまで、生きた心地がしませんでした。月並みですが、平凡な日常のありがたさを改めて噛みしめました。同時に、日本はいったいどうなってしまうんだろう、と戦慄したことを覚えています。特に、福島原発事故の報道を目にしてからは。

「震災から一年」は「原発事故から一年」でもあります。今日は原発問題を考える上でとても重要な記事を見つけたので、読んで自分が考えたことと一緒にメモしておきたいと思います。現在、福島原発での事故収束作業に従事している、大西さん(仮名)へのインタビュー記事です。被ばくのリスクへの感覚が完全に麻痺してしまっている現場の人々の様子や、労働契約書も結ばれずピンハネもされ放題の下請け労働の実態が、生々しく語られています。

「原発収束作業の現場から ある運動家の報告」(ブログ:福島フクシマFUKUSHIMA)

これだけでもとても貴重な証言なのですが、後半に出てくる「原発労働の現場と反原発運動とのかい離」の節では、原発労働の現場に従事している方ならではの観点から、非常に重要な倫理的問題が提起されています。大西さんはここで、都会で反原発運動に従事している人々の間に見られる、自分達の言説が原発労働へもたらす負の影響への無自覚・無責任の問題を、鋭く指摘します。

 廃炉というのは・・・人数がものすごくいる。54機全部を廃炉にするというなら、数百万の労働者が必要です。・・・収束とか廃炉とかの作業を、原発労働者がやっているという感覚を運動の側が持っていない、身近なものとして感じていないという気がします。
 「廃炉にしろ」と、東京の運動が盛り上がっているんですけど、語弊を恐れずいえば、特定の原発労働者、8万人弱の原発労働者に、「死ね、死ね」って言っているのと同じなんですよね。「高線量浴びて死ね」と。自分たちは安全な場所で「廃炉にしろ」と言っているわけですから。
 原発労働者を犠牲に差し出すみたいな構造が、反原発運動に見られると思います。

このようにかなり強い表現も用いつつ、大西さんは反原発運動に従事する人々の無自覚・無責任と、それが原発労働をめぐる不正と差別構造の温存へと繋がっていることを批判しています。福島原発事故をめぐるこれまでの議論ではあまり語られてこなかった、とても重要な論点であると思います。

ただしこの論点は、反原発運動批判としてのみ理解されるべきではないでしょう。「収束とか廃炉とかの作業を、原発労働者がやっているという感覚を・・・持っていない、身近なものとして感じていない」のは、原発を維持・推進すべきと考える人々も同様だからです。原発で労働者が被る被ばくやピンハネは、平時においてもずっと行われていたことですし、そもそも原発産業は、都市への電力供給のために被ばくリスクの伴う原発建設を地方に押し付けるという、都市−地方間の差別的関係の上に成り立ってきたものでした。

廃炉作業においても平時と同様の不正・差別の構造が存在することを明るみに出したこの記事は、改めて原発問題の難しさを私たちに突きつけているように思います。それはすなわち、原発に賛成する人々や、この問題に無関心を決め込む人々のみならず、反原発を唱える人々も、このままでは結果的に不正や差別の構造を容認・温存するという、言うなれば道徳的に非難されるべき立場に置かれてしまう、という難しさです。つまり原発問題の真の解決のためには、いまや「原発容認か反原発か」という問題に加えて、「道徳的な態度を選ぶか、差別・不正を黙認する不道徳的な態度を続けるか」という新たな問題もまた、考えなければならないということです。

大西さんは、ここで私が言う「道徳的な態度」がいかなるものであるべきかという問題についても、二つの案を与えてくれています。一つは、「1人が100ミリシーベルトを浴びるんじゃなくて、100人で1ミリシーベルトを浴びよう」との、一種の「平等」の観念に基づき、原発から恩恵を受ける(これまで受けてきた)全ての人々の原発作業への従事を義務づける、というものです。もう一つは、「健康の問題について、一生、見ます。もし何かあったときは補償もします。賃金も高遇します」との、言わば「公正」の観念に基づき、原発労働に従事している人々に、今よりもはるかに手厚い報酬を与える、というものです。

直観的にも、どちらもきわめて難しい道だということが分かります。前者は、端的に多くの人々が(私自身も!)恐い、と感じるでしょう。自分が原発で作業するなんてまっぴらごめん、病気になりたくない、逃げたい、という思いに、直ちに駆られます。でも、それでは自分が絶対に引き受けたくないような労働を一部の人々に行わせた場合、どれほどの報酬を与えたら、それは「差別的な押しつけ」でない「公正な報酬」と言えるのでしょうか。答えを出すことは容易ではありません*1

それでは、道徳的な態度があまりにしんどいならば、私たちは一年前の事故より前のように、原発をめぐる不正や差別の構造に対して、再び見て見ぬふりをして、自分達の私生活に閉じ籠もるべきなのでしょうか。私と大切な家族、友人さえ良ければ、あとは福島にいる人々がどうなろうと、日本の原発がどうなろうと知ったことではない、と意識的・無意識的な開き直りの態度によって?それは、あそこまで世界史的な大事故を目の当たりにした社会の一員として、取るべき態度と言えるのでしょうか。

人間は、自ら目にしたものから、学び、考え、行動し、成長することができる存在です。福島原発事故をきっかけに私たちが目撃したのは、原発利権をめぐる電力会社、経産省、マスコミ、大学等の醜悪な癒着関係であり、また同時に、上の記事が改めて示してくれたような、原発労働や都市と地方の関係をめぐる不正と差別の社会構造でした。ここからどのような行動を選び取るのがベストなのかは、この問題が上のように倫理的にも難しい論点を孕んでいる以上、容易に答えが出るものではないでしょう。

ただ、それでも大切なことは(また「答えを出す」よりも簡単なことは)、この大震災と原発事故、それにその後に目にした政治的・社会的出来事を私たちが決して忘れず、また常に多面的な情報に触れつつ、これからどうしていくべきなのか、どうするべきだったのかを、自分の身近な人と考え続け、話し続けることだと思います。その積み重ねによって、これからの日本が成熟したより良い市民社会になっていくことを願っています。

*1:大西さんも記事の最後で指摘するように、これはいわゆる「瓦礫受け入れ」の是非をめぐっても、同様の問題構造を抱えていると言えるでしょう。