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某大学教員の日記

キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』第二部ノート


愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

ロールズ批判の部分(第二部「政治的リベラリズムと人間の依存」)を読んだ。以下は自分なりのまとめ。

これまで政治理論は、児童や要介護高齢者、障害者など、ケアを必要とする「依存者」と、依存者をケアする「依存労働者」をとりまく諸問題を、政治理論の対象でなく私的な問題とみなしてきた。リベラリズムもまた、他者から自立し、他者に無関心で(=自己利益のみを考えることが許される状況にあり)、理性を備えた特殊な「個人」のモデルにもとづき、「公正な社会」の設計をおこなってきた。

だが、(1)ケアを担うべきか否かが当人の社会的地位に多大な影響を与えること(=育児や介護を担う人は、そうでない人よりもキャリア上不利益を蒙りやすい)、(2)誰しも人生のある時点では「依存」状態に置かれることを考えると*1、依存とケアを考慮しない正義論は不十分である。

残念ながら、現代リベラリズムの代表格であるロールズの正義論において、依存とケアは関心の枠外である。ロールズが前提とする個人は、「全生涯を通じて十分に社会的協働が可能な成員」からである。ここで「全生涯」を児童期や老齢期を含まないものと弱く解釈したとしても、「社会的協働」が可能であることという、後半のカント的人間観がネックになる。これのせいで「十分に社会的協働が可能な成員ではない」重度障害者は、「人間の生にとっては例外的であって正常な状態の一つではない」と判断されてしまう。この判断の問題は、第一に、重度障害者がロールズ正義原理の保護外となるからであり、第二に、重度障害者を「異常」とみなす差別的人間観へとつながるからである。

またロールズは、ケアを女性の私的領域(「正義」ではなく「善」の問題)の話だと理解しているのだろう。自由が制約され、かつ社会的地位が低く収入も低い依存労働者についても、積極的に理論化しようとはしていない。

したがって、ロールズが平等に保障されるべき権利とみなす諸々の基本財のリストには、「ケアを受ける権利」や「ケアを引き受けざるをえないときに十分な支援を社会から受ける権利」や「尊厳や自尊を奪われない依存やケアへの権利」は含まれない。

しかしながら、依存とケアは正義に直接かかわる問題である。第一に、ロールズ的個人観にしたがったとしても、「無知のヴェール」において、依存者や依存労働者になる可能性を考慮することは、じゅうぶん「合理的かつ道理にかなっている」。第二に、ケアが多くの人(とりわけ女性)にとって事実上「押しつけられた(=自由に選び取られたものではない)」ものである以上、ケアに付随する社会的地位や自尊の毀損は、正義に反している。第三に、(これはリベラリズムがとらえ損ねている点だが)幸福や福祉にとって人間関係が中核的な価値をもつものである以上、「依存とケア」という、あらゆる人にとって人間関係の基礎になるものは、社会秩序の基礎としても認識されるべきである。

したがって、正義の原理には、ロールズが示す「平等な自由」、「平等な機会と格差原理」の二原理に加えて、「ケアと依存への社会的応答」という第三の原理を据えなければならない。だが、ロールズの二つの正義の原理のどちらからも、第三の原理へと進む自然な方法はないように見える。

*1:「現代の複雑化した社会においては、個人を訓練して「十分に社会的協働が可能な成員」にするためにほぼ20年の歳月がかかる。…また、寿命が長くなるにつれ、私たちの人生のうちの老年期の割合は次第に大きくなり、その期間は再び社会的協働が十分にできる成員ではなくなってしまう。さらには、医療の進歩にもかかわらず、アメリカの人口の約10%が重度の障碍を負っている。だとすると、私たちの人生のこの基本的な特徴が、「正義の環境」に含まれると考えるのは自然だろう。」pp.195-196.