「イングリッシュ・アイデンティティ」の複雑さ
先日、政治学研究科のMichael Kenny教授による大学院生向け講義を聴いてきました。‘The Politics of English Nationhood’というタイトルで、政治家やメディアの言説、一般の人々へのインタビューと質問紙等の調査結果をもとに、現代イングランドにおいて「イングランド人(English)としてのアイデンティティ」が、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを含むより広範な「イギリス人(British)としてのアイデンティティ」と比べて、どのように広まっているのかを考察する内容でした。
以前、「THIS IS ENGLAND〜ディス・イズ・イングランド〜」という1980年代のイングランド中部を舞台にした映画を観たことがあります。これは当時の白人労働者階級の「イングランド人」としてのアイデンティティが排外的な反移民感情と結びつき、そのようなアイデンティティを持った若者が極右政党「国民戦線(the National Front)」を支持していく様子を描いた映画でした。映画自体は、当時の若者文化「スキンヘッズ」を忠実に再現したり、右翼活動に傾倒していく貧困層の人々の抱える疎外感を繊細に描写したりと素晴らしい内容だったのですが、これを観て以来、私はここシェフィールドでも、「イングランドらしさ」が強調される場面には警戒心を抱くようになってしまいました。たとえばイングランドの旗*1が大きく掲げられているパブには、そこにいる人々が外国人に対して差別的な人々である可能性があるので近づかない、などです。ただ、こうした私の判断がどこまで正しいものなのか、「イングリッシュ・アイデンティティ」についてもう少し考えてみたいとも常々思っていましたので、Kenny教授の講義もとても興味深く聴くことが出来ました。
講義では、1990年代半ば頃からこうした「イングリッシュ・アイデンティティ」がイングランドの若年層の間で広まっていることが指摘され、例えばそれまでスタジアムでイギリス国旗(ユニオン・ジャック)を振っていたサッカー・ファンの多くがこの頃から代わりにイングランド旗を振るようになった、などのエピソードが紹介されていました。「自分はイギリス人だと思うか、イングランド人だと思うか」との問いに対しても、「イングランド人」と答えた人の割合は90年代初頭には3割程度だったのが徐々に上昇して、2000年代に入ってからは5割程度で推移していること、とりわけ若年層にその傾向が強いことが明らかにされ、背景には90年代以降の地方分権、不況、グローバリゼーションと移民流入、アンチEU感情などが混在していると分析されていました。
ただしケニー先生は、現在のイングリッシュ・アイデンティティが必ずしも排外的な右翼感情とのみ結びつくわけではないことも強調していました。移民やムスリムに対する「怒り」をこうしたアイデンティティの基にする人々が今でもいる一方で、自分の故郷への愛情をイングリッシュ・アイデンティティと結びつける「コミュニタリアン」な感情や、さらには多文化主義や寛容といった価値とイングランドらしさを結び付けようとする「リベラル」な態度もまた、エスニック・マイノリティの若者や地方政府の言説などに見られる、と指摘していました。
最後のイングリッシュ・アイデンティティとリベラリズムとの結びつきは、前者に対する私のこれまでの印象を覆すものであったため、少なからず驚かされました。ただ、あとで同じくこの講義を聴いた同級生のエイサ君とも話したのですが、彼も人に聞かれれば自分はイングランド人だと答えるし、自分が「イギリス人(British)」だと感じたことは全くないと言っていました。むしろ「イギリス人」としてのアイデンティティを持つ人はほとんどいないだろうと思っていたので、いまだに5割もそういう人がいるということに驚いた、とも。(ただし彼は両親がアイルランド出身なので、アイリッシュとしてのアイデンティティの方がはるかに強いそうですが)。
エイサ君は私が出会ったイギリス人のなかでもひときわオープン・マインデッドな性格で、排外的な右翼とはほど遠い人物ですが、そんな彼もまた「イギリス人」ではなく「イングランド人」としてのアイデンティティを多少なりとも持っているという事実は、講義内容と併せて、「イングランド人(English)」というアイデンティティが、かなり複雑なものであることを示しているように思いました。
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追記(11/04/2011):マイケル・ケニー先生は現在この「イングリッシュ・アイデンティティ」に関する本を執筆中で、今年中にOxford University Pressから出版予定とのことです。