私のナショナル・アイデンティティについて
前回の記事でお伝えしたケニー教授の「イングリッシュ・アイデンティティ」に関する講義は、日ごろ私自身が抱いているアイデンティティに関する問題についても、少なくない示唆を与えてくれました。以下に講義を受けて考えたことを簡単にメモしたいと思います。
そもそもアイデンティティという概念自体、複雑で説明しにくいものですが、ひとまずの私の定義では、日々の生活に安定や安心感を与えてくれる自分自身についての理解、となります(専門的にはいろいろ問題ありそうな定義ですが…)。自分がどのような人間であるかを理解することは、思考や行動に一定の基準を与えてくれ、それに従うことが日々の暮らしに安定と安心感を一定程度もたらしてくれるように思います。
重要な点は、こうしたアイデンティティが自分自身の内面だけで自己完結的に形成されるのでは決してなく、周囲の人々との相互関係や、自分を取り巻く文化的環境、政治的言説、経済的利害といった、諸々の社会的影響を絶えず受けているという点です。つまりアイデンティティの形成に当たっては、自分がどのような社会的状況に置かれているかがとりわけ重要な問題となってくるのです。
私自身についても、ここイギリスでは、自分が日本人であり、日本文化や日本的な行動様式に安心感を覚えるという自己理解が、日々の安定した生活の大きな基盤となっています。この意味で、いま私は日本人としての強い「ナショナル・アイデンティティ」を持っていると言えます。
ただ、こうした私のナショナル・アイデンティティが、イギリスという新しい状況に置かれたからこそ喚起されたということも明らかです。日本にいた頃の私は、特段自分が日本人だと意識せずに日々を送っていましたし、むしろ「日本的なもの」の価値をことさら強調する言説からは、それにそぐわないものに対する無関心や軽蔑といった「排除の論理」や、日本社会の抱える問題から目をそらそうとする「偽善」を感じ取り、私は嫌悪感すら抱いていました(近隣諸国に対する侮蔑的な言説はもとより、NHKのCool Japanとかも大嫌いでした)。
それがイギリスに来て、英語という外国語、繊細さと旨味に欠ける食事、対応が適当な上なかなか謝らない外国人などと日々接する必要に迫られて、ストレスがたまっていくなかで、「日本的なもの」の価値を認識し、そこから安心や自信を得るようになったという側面が明らかに私のなかにあります。言語が不自由な一外国人であるという社会的状況によって、はじめて私のナショナル・アイデンティティが喚起されたのだと言えるでしょう。
ここでいつも、それでは私のナショナル・アイデンティティは私の嫌悪していた「排除」や「偽善」の論理を含む右翼的言説と質的に異なるのか、と自分自身に問いかけて、よく分からなくなってしまいます。違うと言いたいところですが、どのように違うのかと問われると、まだ論理的にうまく答えられません。
ケニー教授の「イングリッシュ・アイデンティティ」に関する講義は、このことを考える上でも大きな示唆を与えてくれました。それは、ナショナルないしリージョナルなアイデンティティが多様な形態を取り、現実では右翼のみならずコミュニタリアンやリベラルなど、様々な政治的イデオロギーとも共存しうるということを教えてくれたのです。
これによって私のナショナル・アイデンティティも、右翼的価値にではなく「寛容」と「公平」というリベラルな価値に基礎を置きうる展望が開け、私は大いに勇気づけられました。ただし、これが本当に論理的に可能な事なのかどうかは、より慎重な考察が必要であるとも感じています。ケニー教授が紹介した若者の間に見られるリベラルな価値観とイングリッシュ・アイデンティティの共存も、本来統合され得ぬ二つのものが、なあなあで無意識に共存しているだけに過ぎないのではないか。そんな疑問が残るからです。
リベラルな私とナショナルな私、いまやどちらも私という存在にとっては欠かすことのできないアイデンティティです。どちらか一方を選べ、とあるとき迫られることになった際、私はどちらも選ぶ、と言いたい。ただそれが可能となるためには、それを可能とする「論理の武器」が必要となります。政治理論が意義を持ってくるのは、こういう時なのでしょう。そして私は自分のアイデンティティのために、その武器を手に入れる必要があるということに気づかされたのです。