音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

ヘレン・ミレン主演「クイーン」(2007)を観た


2年ほど前、あるイギリス人の先生から「素晴らしい映画だ」と盛んに勧められた一本。ケンブリッジ大学で教育学の修士号を取ったというその白人女性の先生は、人柄も良く左派的な側面もあって面白い方だったのだが、例えば日本における女性や外国人の社会的地位の低さを、「イギリスに比べて日本は遅れている」という口調で批判することがしばしばあった。この映画を勧められた時も、「日本では皇室をこんな風には撮れないだろう」というようなことを言われた。つまり半ば言及することがタブー視されてる日本の皇室に比べて、イギリスの王室は庶民に向かって開かれている、だからこういう映画も作れるのだ、イギリスは日本より表現の自由が尊重されている国なのだ、ということが言いたかったのだろう。そういう先生の物言いに対して、私は頭の半分では、確かに日本はいろいろな点でイギリスより遅れてるよな、と同感していたが、もう半分では強い違和感を覚えてもいた。


そんなことを思い出しながら昨日ツタヤで借りて観た。観終わって思ったこと。まあ出演者の演技は上手だし映像はきれいだしストーリーは面白いしで、映画としてはとても良くできていたと思う。2007年にいろいろ賞を取ったというのも納得した。


でも決定的な点が私には不満だった。それは作り手側の視点だ。女王や王室という、言ってみればもろに前近代的な制度に対する批判的な視点が、この映画には皆無だった。批判しないまでも、イギリス人お得意のユーモアで、圧倒的な権威を持つ王室を皮肉の1つでもまじえて描いてほしかった。(パロディ的要素が無かった訳ではないが、そうしたコミカルな役回りを演じていたのは、王室ではなくトニー・ブレアだった。)映画の中では、ダイアナの死を悼む人々はマスコミに踊らされる愚かな大衆として、また君主制に批判的なシェリー・ブレア(首相の妻)は無礼で小うるさい女として(ステレオタイプジェンダー像も入りつつ)、それぞれ戯画化されていた。


それに対して、王室の伝統を擁護しながらも大衆に寄り添おうとする女王の方は、とても真摯に、魅力的に描かれていた。映画を観ている私達は、伝統の維持と大衆の要望との間で板挟みになって苦悩する女王、「意外に」質素で庶民的な生活をする女王に、自然と感情移入してしまう。だが女王が威厳を見せる最後のシーンでは、再び彼女は私たち庶民とは異なる一段上の存在として描かれる。後に覚えるのは、女王とイギリス王室に対する、好感と尊敬の念だ。


ヘレン・ミレンの演技は素晴らしいし、映画自体とても良くできているので、これを観てエリザベス2世に好意を覚える人も少なからずいるだろう。試しにAmazon.ukを覗いてみたら、圧倒的な礼賛レビューの数々。だが日本で同じ視点から皇室を描いた映画を撮ったら、天皇制やナショナリズムの弊害に敏感な、少なからぬ左派の人々から批判を浴びせられるのではなかろうか。「こういう映画は日本では作れない」とは確かにその通りかもしれないが、作っても内容がこのような王室礼賛では、かえってタチが悪い。「表現の自由」の結果というよりは、限りなく「プロパガンダ」に近いもののように思えた。


そして左派的なものの考え方をしていたあの教養あるイギリス人の先生さえも、この映画を絶賛するという構図。。。何か気持ち悪い。歴史上、最も早く近代市民革命を成し遂げた国が、未だ前近代的身分制度を巧妙に、強固に温存させているそのパラドクスを、さらにそうした近代性と前近代性の混在が、先生が抱いていたような自文化中心主義的メンタリティへと繋がっていく様を、それぞれ垣間見ることができた。