音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

ロック『市民政府論』も読書中

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)


これも少しずつ読み進めている。とても味わい深くて面白い。半分ほど読んで思ったこと。ロックは「自然状態」と「市民社会」のうち、前者の領域にかなり大きな役割をあてがったということだ。生まれながらに自由で平等な個々人が、夫婦や親子の間で家族を形成したり、生産や交換といった経済活動に従事したり、さらに貨幣の発明後は、契約によって雇用主と賃金労働者になったり・・・こうした様々な社会関係が、ロックの議論では全て「自然状態」での出来事であると想定されている。では市民社会はといえば、これは別名「政治社会」であって、より端的に言えば、自然状態のもとで形成された社会関係の秩序や安全を保障する「国家」と同義であると位置づけられる。


ロックは人間の理性に深い信頼を寄せていたのだろう。だからこそ国家が存在する以前に、すでに基本的な社会関係は自然状態のなかで形成され、人間の理性によってそれらがある程度は安定して維持されると考えたのだ。自然法が定める権利と義務を、相互に認め合い、尊重し合える存在である人間・・・こうしたロックの人間観は、読んでいて胸を打つものがある。しかし同時にそうした人間像を持っていたからこそ、ロックの議論では、自然状態での夫婦間や雇用者−労働者間の社会関係が孕む権力関係に目が向けられることはない。


またもう1点印象に残ったことは、人間が社会と国家を形成する最大の目的を、ロックが所有の維持に据えていたということだ。そこから導き出されるのは、他人からの不当な支配を受けることのない独立した個人としての人間像であり、またそうした個人が所有の維持のために、互いに契約を結んで形成する社会像である。夫婦間の社会関係(家族関係)についても、彼らを結びつける絆は、第一義的には、相互の愛情ではなく契約であるということが強調されている。


こうした自由で独立した人間像を打ち立てたことによって、人はどんなに強力な権力を持った他者に対しても、その恣意的な支配に対しては、不当だと反駁することができるようになった。何よりそうした独立した人間像を可能にしたのは、私の生命と身体、財産は私のものであり、何人の恣意的な支配にも服さないという「所有」の信念である。それは20世紀においても、全体主義に反対する自由主義の強力な拠り所となっただろう。


しかしその一方でこうした個人主義に立脚した人間像や社会像は、いくつかの道徳的な問題と表裏一体である。まだうまく言葉にできないのだが、おそらくそれは、他の人々の苦労や苦境に思いをめぐらせようと努力する共感の倫理や、逆に自分が苦境に陥った時に自分だけを責めるのではなく、自分をこのような状況に追いやった社会的な作用にも思いをめぐらせることのできる想像力、さらにこれと関係して、自分が決して自分一人だけの力で生きているのではなく、多くの人や社会や歴史の働きかけによって存在していることへの認識、といったものだろう。ロック的個人主義からは、人間がその中に置かれた共同性、社会性というものに目を向ける余地は出てこないように思われる。これらは自由主義共同体主義の争点と関わってくる問題でもある。もっと勉強して、言葉にしていきたい。