音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

立岩真也著『私的所有論』読み始める

私的所有論

私的所有論


長らくご無沙汰してましたが無事生きてます。博士課程に進学したとはいえ、大学院生生活そのものに変化はないので、特に書くこともないかなと思っていたが、あまり構えることなく、読書メモとか自分向けにならば色々書いておくべきことがある気がする。ということで復活してみました。


最近は3-4冊の本を平行して読み進めている状態。例えば現代社会学の議論からは立岩真也氏の『私的所有論』、政治思想の古典からジョン・ロック『市民政府論』、あと専攻である20世紀初頭のイギリス自由主義社会主義関連の文献をちらほら、等々。読み始めた動機はばらばらだが、どれも「私的所有」の問題を議論の中心に据えている点で共通点を持っている。ここでは第2章まで読んだ『私的所有論』について(社会学を勉強してきた身としては読み始めるの遅すぎたかも)、ちょっとメモ。

「自分のことは自分で決める」と言うが、「自分のこと」とは何か、その範囲が問題なのであり、そしてなぜその範囲が自己の決定のもとに置かれるべきなのかが問題なのである。こうして、私的所有そのものが、そしてさらに所有そのものが、考察されるべき主題としてある。(p.3)


『私的所有論』冒頭のこの問題提起は、社会学の面目躍如ともいうべき、非常にラディカル(根本的・急進的)なものだと思う。「自分のこととは何か」という問題提起からは、幅広い所有論の可能性が導き出される。例えば臓器移植の問題などに顕著である「身体の所有」に関わる問題や、尊厳死や選択的中絶をめぐる「自己決定」の問題など。よってこの本で扱われる「所有の範囲=自分のこと」は経済学で通常扱われる財の範囲を超えており、そのことは、所有の問題が分野横断的な「社会科学的」なテーマであることを、改めて私達に教えてくれる。


さらにこの本では所有の範囲のみならず、「なぜその範囲が自己の決定のもとに置かれるべきなのか」もまた問題にされる。著者の立岩氏は、ジョン・ロックが当然視した「1.私が自分の身体の延長たる労働を投下して財aを生産する、2.ゆえに私は財aを取得する権利を持つ」といういわゆる労働投下説に対して、そこには論理の飛躍が存在すると指摘するのだ。

この「ゆえに」が根拠づけられない。なぜ1「ゆえに」2なのかと問われる時に、返す言葉がないのである。(中略)つまり、「自分が制御するものは自分のものである」という主張は、それ以上遡れない信念としてある。そこで行き止まりになっている。言われていることは、結局のところ、「自分が作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。(p.36-37)


これも根本的な問いだ。この問いに対しては、「1ゆえに2、とルールを定めることで、社会全体の富の安定した増大が可能となる」といった貢献原則的観点からの返答が考えられるかもしれない。しかしそれは「1ゆえに2」と定めることの帰結的な利点を教えてはくれるかもしれないが、立岩氏のいう1「ゆえに」2を成り立たせる内在的論理の提示にはなりえないだろう。そうすると、ロックの労働投下説の正統性の根拠としては、ここで言われているように「信念」以外には残されていないのかもしれない。


ただしこの「信念」は、事実として近代社会で広く共有されてきたのであり、ゆえに第2章で指摘されるような論理的困難にも関わらず、それは近代社会を成り立たせる根本的原理となってきた(多くの人は「自分が作ったものは自分のもの」という言説を感覚的に正当なものとして受け入れ、それ以上突っ込んで考察してこなかっただろうから)。だが今日、「自分が作ったものは自分のもの」、「自分で決めたことは自己責任」といった類の私的所有(あるいは自己決定)の論理によって正当化される現象の弊害が認識されてきている(富の不平等や選択的中絶の是非など)。この本がそうした近代的な所有/決定の論理に代わる、新たな論理を多くの人が納得できる形で説得的に示しているのかどうか。その点に注目しつつ、第3章以降を読み進めていきたい。