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某大学教員の日記

「社会倫理」に立脚した生き方の模索〜映画版「沈まぬ太陽」を観て〜

沈まぬ太陽 スタンダード・エディション(2枚組) [DVD]

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カーディフ大学のビジネス・スクール図書館で山崎豊子原作「沈まぬ太陽」映画版(2009)のDVDを見つけたので、論文執筆の息抜きに借りて観てみました。原作は未読なのですが、映画版は、スケールの大きな話を3時間という短い時間にうまくおさめており、俳優陣の演技も素晴らしく、とても良い作品に仕上がっていました。また、社会科学的に興味深い点もいくつかありました。以下では、映画を観て少し考えたことを書きたいと思いますが、ストーリーのネタばらしも含みます。未見の方はご注意ください。

ストーリーは、勤め先である巨大航空会社の論理に翻弄される、二人の登場人物に焦点を当てつつ進行します。一人は、渡辺謙演じる主人公の恩地。彼は労働組合の元委員長であり、空の安全や従業員の労働条件改善に努め、会社が起こしたジャンボ機墜落事故の後は遺族の心情に寄り添う姿勢を曲げない、「社会倫理」の体現者として描かれます。しかし、会社の論理に反する生き方を選んだがゆえに、経営陣に疎まれ、10年近くに渡る海外僻地勤務や、帰国後も閑職に追いやられる差別的人事を受けます。その影響は家族にも及び、恩地は親の死に目にも会えず、子どもも「会社で悪いことをしてサセンされた親の子」として学校で居場所をなくし、妻にも彼の海外勤務のあいだずっと淋しい思いをさせることとなります。

もう一人は、恩地の労組時代の盟友でありながら、その過去と決別した三浦友和演じる行天。彼は恩地とは対照的に、会社の論理を徹底的に内面化する道を選びます。御用組合を裏で操り自分が属していた第一組合を潰しにかかったり、事故後に就任した新会長の改革を妨害して旧経営陣の利権維持に奔走したり、あげくには自ら不正に手を染めて会社の不正経理問題の揉み消しを図ったりします。このために、行天は経営陣からの覚えはめでたく、会社の出世コースをひた走り、ついには次期社長を視野に入れるまでの地位を手にします。

私が特に見事だと感じたのは、この映画が恩地と行天の二人を通して、「社会」と「個人」のありうる関係性という、社会科学における普遍的な問題の一端を、鮮やかに照射していたことにありました。

映画のなかで「社会」は重層的に描かれます。まず恩地と恩地の母、妻、二人の子からなる親密圏としての「家族」があります。その上に、恩地と行天にとっての「共同体」とも言うべき、勤め先の航空会社が位置づけられます。映画では、この「共同体=会社」の経営陣が、徹底的に「社会倫理」の欠如した集団として、すなわち空の安全やそれに直結する従業員の労働条件よりも、会社の利潤や政官との癒着による利権を優先する集団として描かれます。経営陣の腐敗体質は、会社が史上最悪のジャンボ機墜落事故を起こしたあとも変わりません。そして最後に、この「共同体=会社」の論理に対抗して、人命の優先や従業員の公正な待遇、墜落事故の遺族への共感と誠意ある謝罪といった道徳的態度を支える、より抽象的かつ普遍的な理念としての「社会倫理」の論理が位置づけられます。このように、この映画では「家族・共同体・社会倫理」という三重の構造によって「社会」が描かれているのです。

恩地と行天の二人は、こうした「社会」のなかに置かれた「個人」として描かれます。注目すべきは、彼らがこの重層的な「社会」の三つの論理のうちの一つを選びとり、自己の人生指針としていることです。恩地は「社会倫理」に立脚する生き方を選びます。彼は、差別的な僻地勤務を続けるか、会社に詫び状を書き過去の自分を否定するかの選択を迫られたときも、「会社は辞めない(し詫び状も書かない)。ここで辞めたら俺の矜持がすたる」と、自己の生き方を変えません。逆に行天は、「共同体=会社」の論理に忠実な生き方を選びます。ただし、彼もまたそれが会社のためというよりは「自分の出世のため」であり自分で選択した道であるという姿勢を一貫して示します。このように彼らの人生態度は、一方では彼らの「主体性」を示していると言えます。しかしその一方では、彼らのその選択自体が特定の「社会」の論理に規定され、それを強化する方向に働いていると見ることも可能です。映画はこうした「個人と社会の相互規定性」という、社会科学の基本視角の映像化に成功しています。

またより重要な点として、ひとつの論理を選ぶことが他の論理を犠牲にしてしまうということ、すなわち「社会」における価値対立の不可避性の問題もまた、この映画は示しています。「社会倫理」を選んだ恩地は、それゆえに「共同体」からは冷遇され、「家族」との関係性も悪化します。他方、行天もまた、「共同体」の論理を優先したことで「社会倫理」と対立する生き方を余議なくされ、そのためか彼の人相は時間の経過とともにどんどん悪くなります(これを的確に表現する三浦友和の演技が秀逸です)。また、行天にも妻がいることが結婚指輪などから示されますが、彼の家族関係は映画では一切示されません。描かれる彼の唯一の親密圏は社内の愛人との関係性ですが、行天は一方ではこの女性を自らの出世のためのスパイとしても利用しています。「共同体=会社」の論理は、彼の生活の全側面を規定しているのです。

少し脱線しますが、私は理論的には、ここで第三の登場人物をあてがうことも出来たのではないかと考えます。すなわち「社会倫理」でも「共同体」でもない、親密な関係性としての、「家族」の論理を優先する人物です。ただ、他方でこの映画の舞台である1960年代〜80年代の日本では、今よりも強固な性別役割分業が存在していたことを考えると、そのような人物の登場は、映画のリアリティを損ねてしまう恐れがあるかもしれません。

現代日本では、この「家族」優先の論理がより強くなっていると言えると思います。いくつか目にした映画のレビューにも、映画を称賛しつつも「行天はもとより、恩地にも共感できない」、「そんな会社ならすぐに辞めれば良かったのに」、「家族がかわいそう」といった、恩地に批判的な感想がありました。抽象的な「社会倫理」に身を投じるのではなく、かと言って中間集団的な「共同体=会社」と心中するのでもない、親密な関係性のなかでの心の安らぎを優先する、言わば「私生活中心主義」の価値観が、今日ではより広がっていると言えるのではないでしょうか。

いずれにせよ「社会倫理」を最優先とする主人公・恩地の生き方は、当時の価値観からしても今の価値観からしても、少数派であることに変わりはありません。「家族を泣かせて英雄気取りか。今に吠え面かくぞ」との上司から彼に浴びせられた冷笑的な言葉は、恩地的な生き方を否定する、簡潔にして最も的を射たものであるように思います。

まとめますと、恩地のように「社会倫理」の論理に従えば、具体的な社会関係からの排除を招きかねず、かと言って行天のように「共同体」に従う生き方では、人格の全側面をカネと権力の追求に捧げざるを得ず、しまいには「寂しい男」(恩地)となってしまう。また、第三の道としての「家族」の優先は、「社会倫理」への無関心と「共同体」の不正の黙認を、それぞれ招いてしまう。私がこの映画から見て取ったのは、「個人」を取り巻く現代の「社会」に存在する、この冷厳な「トリレンマ」でした。この映画が社会科学的に優れているのは、まさにこのことを鮮やかに示した点にあると考えます。

しかし、その一方で「沈まぬ太陽」は、主人公恩地の生き方を通して、冷酷な現実の中でも絶望せず、「社会倫理」に立脚した生き方を模索し続けることの大切さを説いているように思います。ただし、それは決して抽象的な「社会倫理」の追求のために、具体的な繋がりの場である「共同体」や「家族」を否定する生き方ではありません。恩地もまた一方では、「共同体=会社」における他者からの承認を、また同時に「家族」における親密な関係性をそれぞれ求める人間として描かれているからです。「共同体」や「家族」に背を向けるのではなく、そこで営まれる具体的な関係性のなかで、各人が「社会倫理」の論理を出来る限り実践していくことの大切さを、この映画は訴えているように私は思いました。

「社会倫理」に対する無関心を保たぬ限り、「共同体」や「家族」の中に幸福を見出すことが困難である現代社会の冷酷な現実を見据えつつ、それにもかかわらず双方の中に「社会倫理」を埋め込んでいくことの崇高さを訴え続けること。「沈まぬ太陽」は、作者・山崎豊子氏のこうした「熱い心と冷静な社会認識」が、見事に映像化された作品に仕上がっていると思います。山崎豊子氏のインタビュー(下記)やウィキペディアによれば、原作や映画の製作中は、モデルとなった日本航空からの妨害もあったとのことですが、大資本の圧力にも屈せずこのような批判精神に貫かれた作品が完成まで至り、そのうえ高い評価を得たということに、強い感銘を受けました。日本の民主主義もまだまだ捨てたものではないかもしれないとの、希望を持つことのできる作品でした。 


参考URL:
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10372877090.html
(作者・山崎豊子氏インタビュー 『沈まぬ太陽』について)

http://minseikomabahongo.web.fc2.com/kikaku/99ogura.html
(主人公・恩地のモデルとなった小倉寛太郎さんの講演記録 info given by E氏)