音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

研究会に出席しました

昨日は某先生の報告を聞きに、名古屋大学まで行ってきました。帰国以来、家で博士論文の執筆にかかりきりになってしまい気がつけば会話する相手は妻のみ、という状態が続いていましたので、社会復帰のリハビリも兼ねての研究会出席でした。結果的に様々な研究者の方々と交流を結ぶことができ、大変有意義な一日となりました。

報告内容は福祉国家フェミニズムの理論に関するもので、福祉国家理論の知識が学部時代に読んだエスピン-アンデルセンの社会的投資論で止まっていた私にとっては、これまた大きなリハビリ的効果を与えてくれるものでした。

とりわけ興味深かったのが、社会的投資論を批判して現れた二つのケア理論のうち、男女間のケアの配分の平等化を重視する一種の「男女平等論」が英語圏で主流であるのに対して、日本ではむしろ、ケアの与え手と受け手(具体的にはケアをする女性とケアされる子供や高齢者)の生活保障に焦点を置く「ケアの絆」論が影響力を持っているという、フェミニズムにおける英語圏と日本の流行の違いでした。「ケアの絆」論は、論理的にはケアに従事しない男性の変化を求めない/男性には期待しない理論ともなりえ、その点では問題含みのようですが、にもかかわらずシングルマザーの家族の貧困がとりわけ深刻な日本の現状では、政策を考えるに当たって一定の有効性を持っているように思えました。

また日常生活における「政治」の契機という観点も報告では打ち出されていましたが、これも私の研究テーマに引きつけて興味深いものがありました。というのも、ミクロな個人の相互行為のあり方がマクロな国家の政治の質を定めるという視点は、ホブハウスやボザンケらニューリベラル/イギリス理想主義の政治思想においても中心的な要素であったように思うからです。ただし彼らは一様に「政治は倫理に従属すべき」とのアリストテレス的観点を保持していたために、思想の焦点は、相互行為における利他的かつ公共的な道徳性(morality)発露の条件にあったように思われます。彼らのモラリスティックな姿勢は、今日の政治学からすると「政治学的でない」と評価されてしまうのかもしれません。(結局は何をもって「政治」と言えるかという、概念の問題に帰着するのでしょうが。)

 名古屋大学を中心とした研究者の方々の活発なネットワークの様子も垣間見えて、大都市名古屋に住めば良かったかなーと、少し後悔しました。でも終電で帰ってきて、駅から我が家にかけての静けさに、ほっとした自分もいました。甲府市、シェフィールド、カーディフ、そして今の愛知県某市と、ここ数年だいたい同じくらいの規模の街を渡り歩いていますが、やはり自分には人口30〜40万人くらいの中規模都市が肌に合っているようです。