音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

R.ホフスタッター『アメリカの社会進化思想』


今度、社会進化論について論文を書くことになったので、基礎文献であるこの本も読んでみた。原著は1944年出版で、アメリカ社会進化思想史研究の古典とみなされている一冊だ。この本のなかで著者のホフスタッターは、ハーバート・スペンサーやグレアム・サムナーの社会進化論を特殊アメリカ的な保守思想として描いている(スペンサーはイギリス人だが)。すなわち、信仰や直感、共同体の経験知を重視したヨーロッパ保守主義の代表者バークの思想などと異なり、スペンサーやサムナーの思想は、世俗主義的で個人主義的、かつ慣習よりも契約を重視する合理主義的な特徴をもっていた。ホフスタッターは序章で、サムナーたちの思想が、彼らが「貪欲で無責任」と道徳的に否定した大実業家・財閥の急速な成長を結局は後押しすることになった事実を、「アメリカ思想史の皮肉」とまとめている。
第一章以降の本論では、社会学者レスター・ウォードや、ウィリアム・ジェイムズジョン・デューイプラグマティズムなど、社会進化論の批判者にも多くのスペースが割かれている。彼らは、スペンサーらの社会進化論の前提であった人間を生物学的法則に従属した受動的存在と捉える人間観と、競争を自然法則と捉える闘争的な社会観を、それぞれ拒否した。ウォードは1880年代の一連の著作で、政府による集産主義がヨーロッパで成功を収めている事実を指摘し、スペンサーやサムナーの自由放任主義を「古臭い妄想」と切り捨てた。また、ジェイムズやデューイは、人間を自然の一部とみなす一元論を保持しつつ、自然の条件下におかれてもなお、自然を作りかえる意志と能力を備えた主体的存在として人間を認識しなおした。
デューイはまた、人間が自然の意味を組み替え、それによって生存闘争の意味をも変えてきた側面に着目し、スペンサーやサムナーよりもニュアンスに富んだ<人間−自然>論を展開した。病人などケアの必要な人々は、スペンサーらの社会進化論では単に淘汰されるべき「不適者」とみなされるのに対して、デューイは、これらの人々も、自然や闘争の意味次第では、ケアや健康についての先見性や計画性、連帯感を他の人に与える「適者」とみなされうる、と指摘したのだ(p.172)。デューイの思想的な意義をここに見て取れた気がして、個人的にはとても興味深かった。
このほか、クロポトキンの『相互扶助論』やヴェブレンの制度派経済学、クーリーの社会心理学などの影響もあり、第一次大戦が終わるころには、「ダーウィン流の個人主義は19世紀の最後の数十年よりもはるかに細々としたもの」になった、とホフスタッターはまとめている(p.246)。
この本は、個人主義的な社会進化論の興隆と衰退をめぐる世紀転換期のアメリカの社会思想が詳細にまとめられた、いま読んでも得るところの多い一冊だった。だがその反面、社会進化論の「衰退」が主題であり、そのせいで20世紀以降の生物学的社会思想の影響力については過小評価されているように見えたこと、とくに優生思想や人種主義と社会進化論の関係についての議論が不十分であったことは残念だった。ホフスタッターは楽観的にも、現代アメリカでは「人間の身体的な福利(well-being)は社会組織のあり方の結果であって、その逆ではない…という結論」が広く認められるようになった、と結論づけている。
だがこの楽観的な結論には、直前に示された彼の次のような重要な洞察が活かされていないように思う。

ダーウィン個人主義の歴史は、社会思想の構造変化が経済・政治生活の一般的な変化に伴って起こるものであるという原理を示す明らかな例である。そのような思想が容れられるか否かを決定するに際しては、それが真理であるとか論理的であるとかいうことは大して重要な基準ではなく、むしろ心理的な欲求や社会一般の関心に適応しうるかどうかということが重要なのである。(太字引用者)

まさしく現代の日本やアメリカでは、社会進化論が過去に示した生物学的・闘争的・排他主義的な言説・社会観が人々の「心理的な欲求や社会一般の関心に適応」するようになってきた印象を受ける。この意味で社会進化論は、決してホフスタッターが言うように過去の思想とはなっていないように思える。