音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

相模原の障害者施設殺傷事件について

今回の事件が日本社会に与える影響について、いま私が心配しているのは、この先、社会的に影響力のある人物(政治家や知識人など)が、容疑者と同様の、あるいは違った角度から、「障害者は社会からいなくなったほうがよい」との優生思想的なメッセージを発することがないか、だ。たとえば、1980年に渡部昇一が『週刊文春』に出した「神聖な義務」論のように。
今回の事件は、少なくない人々が障害者に対して抱いているであろう優生思想が、非常に極端なかたちで出たケースだろう。障害に対する社会の「常識」や「空気」が、この事件をきっかけに悪い方向に変わっていかないを、とても危惧している。社会の常識は、何かあれば急速に変わりうる。現に、容疑者が影響を受けたとされるヒトラー時代のドイツだけでなく、つい半世紀ほど前までは、日本やアメリカ、北欧諸国でも、当たり前のようにこの優生思想は広がっていたのだ。  
この事件は、障害者の生について、自分はどう考えるのか、ひとりひとりに思考を迫るきっかけを作ったように思う。少なくない人は、自分も程度は違えど容疑者と似た考えを障害者に対して持っていることに、改めて気づかされたのではないだろうか。その考えを強めてしまうのか、それとも気づいた上で、これはいけないと考えを変えていくのかは、メディアや教育を含め、社会からのその人への働きかけが大きく影響するのだと思う。
いまは措置入院のあり方など制度的な話が先行しているようだが、いまこそ社会的に発信力・影響力のある人たちが、「障害の有無にかかわらず、誰もが日々喜びや幸せを感じ、他の人から適切な配慮を受けつづけ、生をまっとうする権利をもっている」というポジティブなメッセージをどんどん発していくべきだ。そうして、優生思想が人々の心に根づいていくのを防ぐべきだ。あとになって、振り返ればあの事件が日本の優生社会化のきっかけを作った、と思うようになることだけは絶対に避けたい。いま、日本社会の度量が問われているのだと思う。