音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

最近の関心事:トマス・ヒル・グリーンと障害の歴史

今学期も勤務先大学の授業は無事終了。ようやく少し腰を据えて読み書きができそうだ(まだ採点とシラバス執筆が残っているが・・・)。

最近は、トマス・ヒル・グリーンの倫理学を少ししっかり読んでいる。人間の本質を「他者と意識を介して関係する」ことに置くグリーン。その点で、ホッブズベンサムなどの原子論的な人間観とは大きく異なる人間観をもっており、ホブハウスなどのニューリベラリズムにも大きな哲学的影響を与えた。いま、きちんと理解したいのは、個人を社会的存在ととらえるこうした視点が、グリーンの倫理学にみられる「卓越主義」――個々人の潜在能力の発展を道徳的な善とする立場――と、いかなる理論的関係を取り結んでいたのか、という問題だ。彼の卓越主義は、果たして本質的に「社会」を必要とするのか?グリーンの哲学において、個人が社会的存在であることと、卓越が普遍的な善であることのあいだには、何か内在的な関連があるのだろうか。あるいは、両者は切り離して考えられるべきものか。この問いを、彼の主著であるProlegomena to Ethicsや、以下の文献を読み進めつつ考察している。


T.H. Green's Moral and Political Philosophy: A Phenomenological Perspective

T.H. Green's Moral and Political Philosophy: A Phenomenological Perspective

Perfectionism and the Common Good: Themes in the Philosophy of T. H. Green (Lines of Thought)

Perfectionism and the Common Good: Themes in the Philosophy of T. H. Green (Lines of Thought)


グリーン研究とあわせて学んでいきたいのは、19世紀末以降のイギリスにおける、障害者に対する政策や思想、施設や家庭でのケアの実態、そして障害当事者の運動だ。イギリス障害学の泰斗マイケル・オリバーが以下の本でマルクス主義の立場から喝破しているように、福祉国家が資本主義の延命装置だったとするならば、十分な稼働能力をもたない障害者は、福祉国家のもとでも常に「市民」のカテゴリーから排除される存在であり続けた。では、実際に障害者に対する社会的な排除(とそれに対する抵抗)は、どのような政策、思想、ケアによって行われてきたのだろうか。


障害の政治

障害の政治


この第二のテーマについては、子どもが生まれたことでケアの問題が身近になったことや、昨年7月の相模原の事件から強い衝撃を受けたことをきっかけに考えるようになった。また、思い起こせば修士論文でホブハウスの優生思想――知的障害者の排除を肯定する言説――にも触れたときから、いつかこのテーマについてしっかり学びたいと思っていた(当時の指導教官に修士論文で唯一褒められたのも、そういえばこの部分だった)。いまは、手始めに以下の本を読み進めている。知的障害者を対象とするさまざまな公的処遇――コロニーへの隔離、コミュニティケア、あるいは断種――についての、世紀転換期イギリスの政治家、官僚、精神科医らの思想と行動が詳細に検討されている。こういう一次資料を駆使した手堅い歴史学研究は自分にはとてもできなさそうだが、勉強するだけでなく、何らかのかたちで自分でもアウトプットしていきたいとも思っている。


The Problem of Mental Deficiency: Eugenics, Democracy, and Social Policy in Britain C.1870-1959 (Oxford Historical Monographs)

The Problem of Mental Deficiency: Eugenics, Democracy, and Social Policy in Britain C.1870-1959 (Oxford Historical Monographs)