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某大学教員の日記

生松敬三著『社会思想の歴史 ヘーゲル・マルクス・ウェーバー』+G.A.コーエン

社会思想の歴史―ヘーゲル・マルクス・ウェーバー (岩波現代文庫)

社会思想の歴史―ヘーゲル・マルクス・ウェーバー (岩波現代文庫)


1969年に出版された本の2002年度文庫版。実家の本棚に長いこと眠っていた本だが、こないだ帰ったときにふと手にとって読み始めた。40年前に書かれたとはとても思えない、優れて今日的なアクチュアリティーを持つ内容だった。もっと早くに読んでおけばよかったと思う。


この本で扱われている社会思想家は主に10人。序章から順に、ロック、ルソー、カント、ドイツ・ロマン主義シェリングなど)、ヘーゲルマルクス、テンニエスウェーバーフロイト、そしてマルクーゼである。目次の顔ぶれを見た第一印象は、出版が1969年ということもあり、フーコーハーバーマスルーマンなどが入っておらず、さすがにちょっと古いかなというものだったが、カントからマルクスへ至る、ドイツ社会思想史の流れを抑えておこうと思ってぱらぱらと読み始めた。そうしたらとても勉強になって、なおかつ面白かった。著者の強い問題意識のためか、叙述が各思想家の思想の単なる羅列に終わらず、各章が共に強く連関していて、骨太な一貫性を持った一冊だった。


上記の顔ぶれを見れば分かるように、本書に出てくる思想家のほとんどはドイツ系の思想家である。著者もはしがきで、「社会思想史としてはいささか偏頗なものであることは著者自身じゅうぶん承知している」と断りを入れている。このことは確かに『社会思想の歴史』という題名から期待される内容からみれば、本書が扱うテーマの偏りを示すものだろう。しかしながら著者の問題意識に照らして考えれば、このことは逆に本書の強みともなっている。


本書には、大きく2つの問題意識が議論のモチーフとして貫かれている。1つは、市民社会と国家の関係を、各思想家がどのように捉えたのかという問題であり、もう1つは、経済構造と意識の関係を、各思想家がどのように捉えたかという問題である。どちらも社会思想の分野においてはとても重要な問題だが、この2つの問題を考えるに当たって、ドイツの社会思想史を考察するのは非常に大切なことである。なぜなら前者の市民社会と国家の関係については、著者も言うように、ドイツにおいてはイギリス、フランスに比べて市民社会の形成が遅れたという歴史的事実が、逆に「そのおくれを観念の世界、思想の世界においてとりもどし、さらに一歩先んじようとする」、「カント以降のドイツ哲学の課題」(20)を生み出し、そして実際に、「市民社会についての徹底した理論的考察は、当のイギリスやフランスにおいてよりも、ドイツに数多く輩出することにな」ったからである(21)。
 また後者についても、経済構造と意識の関係を社会思想上の一大問題として提起したのは、他ならぬドイツの思想家マルクスであった。そして彼のこのような問題視角もまた、ヘーゲルからフォイエルバッハに至る、ドイツ観念論哲学への批判から生まれたものだった。また著者によれば、マルクス以後、ドイツとオーストリアに生まれた二人の社会思想上の巨人である、ウェーバーフロイトもまた、マルクスの上部構造−下部構造の議論をいかに相対化するか、またいかに経済と意識の関係に対する認識をマルクスよりも深めるか、という問題意識を強く持っていた。ここから、市民社会と国家の関係、さらに経済と意識の関係をそれぞれ考察するために、ドイツ社会思想史の流れを追うことが極めて重要なものであることが理解されるのである。


ところで初めの部分で、本書は「優れて今日的なアクチュアリティーを持つ」と書いた。この点について付言すると、私見では現代社会の二大問題として、福祉国家の問題と、倫理(または価値)の問題の2つがあると思っている。本書を貫く2つの問題意識は、まさにこの2つの今日的な課題に対しても、それぞれ大きな示唆を与えてくれるものである。すなわち福祉国家の問題を考える際には、理論的な次元で、社会と国家の関係を問う必要が出てくるし、また倫理の問題を考える際には、事実と価値の関係(マルクスの言葉を借りれば、経済的土台と上部構造)を問う必要が生じてくるのであり、これらの点に鑑みても、本書で展開される議論は何ら古さを感じさせるものではない。


本書を貫くこれら2つの点について、それぞれの議論をまとめてみよう。前者の市民社会と国家の関係については、第1章のロックとルソーの章から、第5章のヘーゲルの章に至るまでが詳しい。ここでは理性への信頼と個人主義に基づき、市民社会を人間進歩の中心的な場に据えた、ロックからカントに至る啓蒙主義と、それに対して理性よりも歴史や伝統を信頼し、個よりも全体を、個人よりも国家の有機的な発展を重視した、シェリングらドイツ・ロマン主義の対立が焦点となる。(この思想的対立は、1980年代以降、政治思想の場で顕在化したリベラル−コミュニタリアン論争を、少しばかり彷彿とさせる。)


この啓蒙思想VSロマン主義市民社会−国家をめぐる価値的な対立は、ヘーゲル弁証法に基づいた考察によって、理論的に統合される。ヘーゲルによれば、歴史の主体は個々の人間ではなく、「世界精神」という名の理性である。「世界精神の神的な力は、人間の行為を支配する客観的な力としてあらわれ、歴史法則は、個々人を越えた名状しがたい必然の力として働くのである」(55)。ヘーゲルによれば、啓蒙主義がそうあるべきと規範的に考えた理性の思想的勝利は、実は歴史的に必然づけられた「事実」でもあった。その意味で、ヘーゲル啓蒙主義の側に与する。しかしその一方で、理性を勝利させる主体は個々の人間ではなく、そうした人間の行為を歴史的に必然づけている、「世界精神」(=神!)なのである。そして世界精神が具現化される場として、市民社会でなく国家が位置づけられる。「世界精神は、歴史の実体的な主体であり、この世界精神は自由の真の領域である「国家」においてのみ具体的に自己を実現する。ここにおいて世界精神はいわば制度化され、自己を意識し、この自己意識を通じて歴史法則は働く」(56)のである。ここに個人よりも国家を歴史の発展にとって本質的なものと捉えた、ヘーゲルロマン主義的要素が見て取れる。


このような神学的な装いと共に、ヘーゲルにおいて啓蒙思想ロマン主義が理論的に統合(ヘーゲルの用語で言えば「止揚」)されたことが分かる。ヘーゲル事実認識は、現代人の我々からすると荒唐無稽のように思えるものではあるが、ここでもし、ヘーゲルの理論を事実認識ではなく、価値の思想として捉えるならば、現代に生きる私たちが汲み取ることの出来る点も多いように思う。すなわちヘーゲル思想は、リベラリズムの立場からの批判が指摘するように、国家讃美の思想としての要素を持つ一方で、国家を理性的なものと見るその視点によって、国家を通じて個人の福祉を増大させるべきという、福祉国家に親和的な思想にもなりうるように思われる。この点に関して福祉国家が他ならぬドイツに始まり、またイギリスにおいてもヘーゲル思想の影響を受けた理想主義が、世紀転換期の福祉国家の発展にとって一定の思想的影響力を持ったことは示唆的である。
 

次に後者の経済構造と意識の関係について。第6章から第9章にかけてのマルクスの章では、神を主体に、人間を客体に据えたヘーゲルの上記のような認識を批判し、その枠組みを転倒させて、人間を主体に、神を客体に据えたフォイエルバッハ人間主義的なヘーゲル批判をマルクスが引き継いだこと、またそこからさらに一歩進めて、意識の発展そのものが、現実の物質的状況の歴史的変化の反映であるとする、史的唯物論を唱えるに至った過程が示されている。

あくまで「生きた人間諸個人の存在」を歴史の最初の前提としながら、かれらの「生活手段を生産する様式」、「生活様式」に着目し、その「生産の物質的諸条件に依存」するものとして諸個人をとらえ、生産と交通、分業の発達と所有の諸形態が明らかにされてゆく。諸観念、諸表象、意識の生産は、「まず最初は直接に人間の物質的活動と物質的交通という現実生活の言語にあみこまれている」ものにほかならぬとされる。まさに「天上から地上に下降するドイツの哲学とはまったく反対に、ここでは地上から天上への上昇がおこなわれている」わけである。現実に活動する人間たちを出発点として、かれらの現実的な生活過程の側から、「この生活過程のイデオロギー的な反映と反響の発展」も明らかにされる。「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」のである。(96)


ここで少し脱線して、この史的唯物論と思想の関係について、また事実と価値の関係について、少し考えてみたい。上記の史的唯物論は、社会思想の研究者にとって、とても魅力的な認識方法であると同時に、非常にやっかいな代物でもあるように思う。史的唯物論にとってみれば、ある思想は、それが出てきた時代の歴史的な物質的条件によって生み出されたものであり、また同時に、その中の特定の社会集団の利害を正当化するものでもある。つまり史的唯物論にとって、あらゆる思想とは、それが事実に関するものであっても規範に関するものであっても、等しく(社会的な)イデオロギーとしての機能を担っているのである。


この見方が社会思想の研究者にとって魅力的であるのは、それが思想と現実の、主観と客観の、規範と事実の繋がりをそれぞれ示唆してくれることで、思想研究者の視野が一気に広がるからに他ならない。それは観念の世界に埋没してしまいがちな思想研究者の研究に、社会科学的な深みを与えてくれるものだろう。しかし同時にそれがやっかいであるのは、史的唯物論の立場に立つや否や、ある思想の規範的な正しさを内在的に問うことの意味がほとんど無くなってしまうからである。例えばマルクス主義的な史的唯物論に立つ限り、道徳的リベラリズムが規範的に正当な理論かどうかを問うことは、それほど意味を持たない。むしろそこでより重要となる「事実」は、リベラリズムブルジョワ階級の利害を代表した、資本主義経済擁護のイデオロギーだという点である。


ここでマルクス主義自体もまたイデオロギーではないのか、という批判が当然あり得るだろう。しかしマルクス主義者にとって、史的唯物論イデオロギーではなく、「科学」として位置づけられる。それは近代が資本主義社会から社会主義社会へと移行する、その必然的過程を理論的、科学的に分析したものであって、決して空想的社会主義者が行ったように、「社会主義へと移行すべき」という価値判断を含んでいるものではない。


しかし『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』という著作で、著者のG.A.コーエンが指摘するように、現代社会は、古典的マルクス主義が歴史の必然として思い描いたような歴史的過程を辿っていないことが今や明らかになってきている。コーエンによれば、その主要因は2つある。1つは「先進工業社会において、 (1)社会を左右する生産者で、(2)搾取され、(3)(その家族を含めて)社会の多数で、(4)極度の困窮にある、という〔マルクス主義者たちが、社会主義運動の最盛期において労働者階級のうちに見出した〕これら4つの特徴をすべて合わせもつような集団は〔もはや〕存在していない」(198)ため、すなわちプロレタリアートが今やばらばらになってしまったためであり、もう1つは、将来的に人類に物質的平等が達成されるだろうと古典的マルクス主義が楽観的に考えた、その根拠であった資本主義経済による生産力の充分な発展が、エコロジー危機によって怪しくなってきたためである。こうした現状に鑑みて、コーエンはマルクス主義の立場から道徳哲学の復権を唱える。社会主義的経済学者および哲学者に向けた次のようなコーエンの主張は、社会思想の研究者にとってもまた、思想研究の意義を再認識させてくれるものとして示唆的である。

マルクス主義は、豊かさによって平等がわれわれに与えられるだろうと考えた。だがわれわれは、欠乏状況のための平等を探し求めなければならない。そしてわれわれは、われわれの探している平等がどのようなものであり、それを探求することがいかなる理由で正当化され、それが制度的にはどのようにして実現されるのか、といった問題を以前よりずっとはっきりと認識していなければならない。社会主義的経済学者ならびに哲学者の今後の努力は、こうした認識によって規定されなければならない。(211)

あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか (こぶしフォーラム)

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脱線途中で息切れしてきたので、残りは短くまとめる。『社会思想の歴史』に話を戻すと、第10章以降で展開されるテンニエスウェーバーフロイトらは、いずれもマルクスから大きな影響を受け、経済構造の持つ歴史的な重要性を認めた一方で、意識(または無意識)の自律性を歴史実証的に、または精神分析学的に論じることで、史的唯物論の相対化を試みた。しかしこのことは決してマルクスの否定を意味しない。特にマルクスと対比させられることの多いウェーバーに関して言えば、マルクスウェーバーの思想は決して相反するものではなく、相互に補完的なものであると著者は説く。すなわちウェーバーは、マルクスエンゲルスが充分に展開しなかった下部構造と上部構造の相互作用のメカニズムに対する認識を、意識が経済構造に与えた影響に目を向けたことで、より深めたといえるのだ。

「経済のもつ根底的な意義」を認めた上でウェーバーが行った宗教社会学的諸研究は、独自の上部構造論への一寄与としてとらえてみることができるし、意味のあることなのではあるまいか。マルクスはもっぱら「経済的土台」の運動法則、経済法則を解明し、法、政治、芸術その他もろもろの上部構造は、その土台によって根底的に制約されており、それのイデオロギー的表現であることを力説した。が、その上部構造と土台との相互作用にまではじゅうぶん説き及ばなかった。これに対してウェーバーは、「経済的利害状況」が根底的な制約を加えることを認めながらも、政治、芸術、宗教、等々の文化諸領域のもつ「固有の法則性」にも眼をくばり、それら諸領域における独自の動きがまた、経済の動きを逆に制約するといった、社会現象の多元的な連関をもとらえようとしたのである。(155)


この本は、不正や貧困を生み出す現代社会への批判的視点、そして人間の解放を目指す「ヒューマニズム」(186)をそれぞれ打ち出したマルクスの問題意識の大切さを、そして同時に、現実の複雑さに対して謙虚であり続け、また思想と経済構造の関係に対するバランス感覚を意識し続けたウェーバーの社会科学的誠実さを、それぞれ教えてくれた。思えば私が大学に入って初めて読んだ本が、この本の著者である生松敬三氏が訳した、スチュアート・ヒューズの『意識と社会』だった。当時は難しくてほとんど理解できなかったものの、社会思想の大切さと面白さをそこで教わった気がする。今なら『意識と社会』も面白く読み進められるかなと思う。ちなみに社会思想史の観点からマルクスウェーバーの両者を比較して論じたものには、高島善哉氏の『マルクスヴェーバー』がある。実はこれも学部時代に、ゼミでまず読め、と先生に言われたものの、そのときは難しくて読むのを止めてしまったままの本だ。今ならその本からも多くを学べるだろうか。『社会思想の歴史』は、そんな風に過去の思い出に何度かとらわれつつ読み進めた本だった。うわーすごい長くなってしまった。読んでくれた人、ありがとうございます。


意識と社会―ヨーロッパ社会思想1890‐1930

意識と社会―ヨーロッパ社会思想1890‐1930