音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

自立と介入の適切な関係とは?(知的障害者福祉をめぐって)

引き続きイギリスの知的障害者福祉の歴史を勉強中。以下の本は、第二次世界大戦後から2001年までの知的障害者をめぐる思想、政策、生活実態、国際比較が網羅的にまとめられていて、基礎知識やイメージを得るうえでとても有益だった。ただし、著者たちはイギリス保健省の出した2001年白書Valuing Peopleを、知的障害者福祉の目指すべきゴールとして理想化しているふしがあり、その点はやや気になった。Valuing Peopleは、「自立、選択、権利、インクルージョン」の4原則を、知的障害者福祉の新たな理念に掲げている。その意味では、「恩恵から権利(シティズンシップ)へ」、という社会福祉史・障害者福祉史の大きな流れに沿うものではある。しかしながら、自立や選択の過度の優先は、知的障害当事者のQOLや、安全にとって必要な介入を怠ってしまうことにもなりかねないのではないか。(政治哲学的にいえば、古典的な「消極的自由」と「積極的自由」の問題につながりそうだ。)


Community Care in Perspective: Care, Control and Citizenship

Community Care in Perspective: Care, Control and Citizenship


そんなことを感じながら他にも文献をサーチしていたら、以下の論文で、選択の自由を重視するリベラルな権利論が、知的障害者福祉と鋭い緊張関係にあることが指摘されていた。

Rachel Fyson & John Cromby (2013) 'Human rights and intellectual disabilities in an era of 'choice'’, Journal of Intellectual Disabilities Research, 57, 12: 1164-1172.


この論文でも言及されているように、イギリスでは2007年に、重度の知的障害の男性が健常の「友人たち」と自立生活を送っていたところ、同居人からひどい虐待を受けたのちに殺害されるという、痛ましい事件が起きている。その際、とくに問題視されたのは、ソーシャルワーカーが彼の生活状況を把握していたにもかかわらず、同居人からの危害のリスクよりも男性本人の「自由」を優先し、介入を行わなかったことだ。以下のガーディアン紙の過去記事には、事件の生々しい詳細が記されている。

Tortured, drugged and killed, a month after the care visits were stopped’(4Aug2007, The Guardian)


障害一般についても言えることであろうが、判断や選択においてサポートを必要とする知的障害者にとって、「自立と介入」あるいは「自由とケア」の関係は、とくに丁寧に考察されるべきであろう。パターナリズムに陥らない適切な介入とは、どのようなものであるべきだろうか。