音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

「社会学的忘却」についてメモ

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

「社会的な社会」という表現が…有意味であるためには、社会的という言葉が…特定の価値を志向する規範概念として、機能しなければならない。そして、このことの中に、社会学(者)が…社会的なものを忘却するに至った、一つの大きな理由がある。その忘却は、少なくとも当初は、積極的かつ意図的になされたのであり、社会学は「価値自由」という原則を自らに課しながら、「社会的」という言葉から規範的要素をそぎ落とし、これを可能なかぎり抽象化してきたのである。(市野川容孝『社会』p.ix)

別種の忘却がもう一つある。それは「社会学的忘却」と言うべきものであり…日本だけに顕著なものというわけではない。…ドイツやフランスの憲法が規定する社会的なものが、すぐれて規範的な概念であるということ、福祉国家に連なるということを踏まえて、より具体的に言うなら、それが平等や連帯という価値を志向する概念であるということ…これに対して、社会学は「価値自由」という周知の原則を自らに課しつつ、自らが分析や記述のために用いる「社会的」という言葉から、その規範的要素を極力そぎ落とし、この言葉を人間関係や相互行為を漠然と指し示すものへと抽象化してきた。(p.35)

社会学は、たとえばドイツやフランスの憲法に今日、記されている「社会的」という理念を、自らも従うべき「規範」としてではなく、人びとを拘束する社会的「事実」として外から記述しなければならないのであり、この記述はさらに、連帯を志向する狭義の「社会的」なものの偶有性(他でもありうること)を開かざるをえない。つまり、社会学者は、連帯のみならず、それを極小化するような「個人主義」をも、それらが外在性と拘束性を有する規範であるかぎり、等しく「社会的事実」として扱わざるをえなくなるのである。(p.38)

ロックやヒュームやスミスらのイギリス道徳哲学と、ルソーとでは、社会的なものの概念が大きく異なる。前者は、ルソーと違って、それを不平等の是正にまで展開しきっていない。別の言葉で言い換えれば、「交換的正義」を語っても、「分配的正義」は語らない。…〔しかし〕英語圏においても「社会的」という言葉には、19世紀以降「平等」という理念が深く埋め込まれていく…/イギリスの社会学者、T.H.マーシャルが提示した「社会的social」な権利という概念が、その一例である。マーシャルによれば、「権利」の概念は、人身の自由を定めた「市民的civil」な権利から、財産の有無によらず政治に参加する「政治的political」な権利へ(普通選挙権)へ、さらに実質的な平等を求める「社会的」な権利(福祉国家)へと歴史的に展開してきた。また、福祉国家を縮小させる際に、M.サッチャーが口にした「社会などというものは存在しない」という言葉は、「社会」という言葉の意味を、裏返しで伝えている。(pp.116-117)

ジンメルは「自然」という概念の下で自由と平等が調和していた18世紀とは異なり、19世紀に入ると「平等なき自由への傾向」と「自由なき平等への傾向」の二極分化が生じたと述べる。/…「自然」という概念を台座とした、自由と平等の18世紀的な予定調和は崩れ、両者の間には抜き差しならない亀裂が生じたのであり、そして19世紀の「社会的なもの」は…この亀裂を開口部として噴出してくるのである。それはまた「社会科学の誕生」を意味したが、その課題は、肥大する「自由」の中で痩せ細っていくように見える「平等」を今一度、構想しなおすことだった。(p.142)


この本を修士課程の時に読んで以来、「社会学的忘却」は、示唆を受け続けてきた概念。次のような著者の問題意識にも、とても共感する。

確かに、経験科学としての社会科学は、「社会的」という言葉に書き込み可能な価値の共有を、人びとに強要することはできない。しかし、少なくとも「社会的」という言葉によって、人びとが「なにをなしうるか」「なにを意欲しうるのか」を、社会学的啓蒙の一つの課題として明らかにできるし、またすべきなのである。(p.45)

だが一点、不満なのは、著者が19世紀以降の「社会」という言葉に含まれた規範的含意を、もっぱら「平等」概念からのみ理解していることだ。それは誤りではないだろうが、不十分であると思う。例えば20世紀初頭の初期イギリス社会学史を見ると、「社会」という言葉には、「協同性cooperation」、「利他性altruism」、あるいは「進歩progress」といった、「平等」とは異なる規範的概念が、密接に関係づけられていたことが分かる。またそうした規範的概念は、ある程度、イギリス福祉国家の思想的基礎ともなっていく。著者が示した、「社会」概念に込められた規範的含意の歴史的解明という課題を受けつつ、その国ごと、時代ごとの現れの多様さにも研究の目を向けていくことが、上の問題意識にとっても、これから重要な課題となるだろう。