音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

価値判断(思想)の被制約性と自律性についてメモ


歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

歴史的事実と歴史家

歴史家と歴史上の事実との関係を吟味して参りますと、私たちは二つの難所の間を危く航行するという全く不安的な状態にあることが判ります。すなわち、歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論の難所と、歴史とは、歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える、これまた支持し難い理論の難所との間、つまり、歴史の重心は過去にあるという見方と、歴史の重心は現在にあるという見方との間であります。(E.H.カー『歴史とは何か』pp.38-39)


価値の歴史的被制約性

社会から切り離され、歴史から切り離された抽象的な規準や価値というのは、抽象的な個人と全く同様の幻想であります。真面目な歴史家というのは、すべての価値の歴史的被制約性を認める人のことで、自分の価値に超歴史的客観性を要求する人のことではありません。私たちの抱いている信仰にしろ、私たちが立てる判断の規準にしろ、歴史の一部分なのであって、歴史的に研究されねばならぬという点では人間行動の他のすべての側面と全く変わらないのです。(同、p.122)


歴史における因果関係

歴史家が、自分の目的にとって有意味な事実を果てしない事実の大海から選び出すのと全く同じように、彼は、歴史的に有意味な因果の連鎖を、いや、それだけを多数の原因結果の多くの連鎖の中から取り出すのです。そして、歴史的意味の規準とは、彼の考えている合理的な説明および解釈の型の中へ事実を嵌め込む彼の能力ということなのです。…一般的に言って、人間はある目的のために理性を用いるものです。私たちがある説明を合理的と認め、他の説明を合理的でないと認めました時、私たちはある目的に役立つ説明と、そうでない説明とを区別していたのだと思います。…目的の観念は必然的に価値判断を含みます。…歴史における解釈はいつでも価値判断と結びついているものであり、因果関係は解釈と結びついているものであります。(pp.155-158)

私たちが事実を知ろうとする時、私たちが出す問題も、私たちが手に入れる解答も、私たちの価値体系が背景になっているものです。私たちの環境の諸事実に私たちがどういう姿を与えるかは、私たちの価値によって、つまり、私たちが環境を見る時に媒介に用いる範疇によって決められております。この姿は、私たちが考慮せねばならぬ重要な事実の一つです。価値は事実のうちへ入り込み、その本質的な部分になっているのです。(同、p.195)


自己内対話―3冊のノートから

自己内対話―3冊のノートから

認識作用に内在する矛盾。
見ようとしなければ観察できない。ものが眼に映じているということは観察ではない。すべての観察は観察対象にたいする観察者のインタレストに発している。しかしまさに一定のインタレストに発しているゆえに、観察の「客観性」は両義的となる。インタレストがあるからこそ、単なる路傍の人よりもものがよく見えると同時に、インタレストによってその認識は一面的となる。(丸山真男『自己内対話』p.116)

認識の、対象への参与 → すべての認識が対象に参与している限り、そこには真理がある。その真理は絶対的であって、相対的ではない。ただ、対象の全構造を一遍に把握するような認識は現実には存在しないから、現実の認識は部分的真理たるを免れないだけだ。部分的と相対的とを混同してはならない。混同すると相対主義に陥る。あらゆる認識の社会的制約性は、経験的真理の相対性ではなく、ただ部分性を示すにすぎない。(同、p.129)

思想史を事実史の「反映」ないし、その函数としてだけとらえる見方からいかにして解放されるかの問題 → 思想史の自律性。(同、p.243)