音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

優生思想と2つの「メリトクラシー」


「「ある種の人々が、社会的〔経済的〕に恵まれた階級に属しているのは、彼らの血統が、遺伝的に最も優秀なものだという事実に基づいている」といった類の、優生学社会学者のおきまりの想定は…」(L.T.Hobhouse "Social Evolution and Political Theory"(1911),p.59)


今読み進めている文献のなかに、1世紀前と現代の社会学では、「優秀さ」と「階級状況」の関係についての説明の因果関係が、全く逆であることを示す一文を見つけた。


現代の社会学でもっぱら強調されるのは、例えば子どもの学校での「優秀さ」に影響を及ぼす一要因としての、社会・経済的階級状況の強調である。ここでの説明の因果関係は、階級状況(原因)→優秀さ(結果)となる。東大に入る子どもは、得てして高収入の家庭出身の傾向があるという説明の仕方が、これに当てはまる。


しかし1世紀前のイギリスで流行していた優生学の様相をまとった社会学、すなわちここでホブハウスが批判している「優生学社会学」では、ある人の階級状況は、彼/彼女の生来の、遺伝的「優秀さ」の結果として位置づけられる。ここでの説明の因果関係は、遺伝的優秀さ(原因)→階級状況(結果)となる。こうした説明は、社会学優生学への従属を表していると言えるかもしれない。


ところで双方の議論に大きく関連する概念の1つに、「メリトクラシー」がある(日本語では「能力主義」などと訳される)。上の2つの因果関係の区別を踏まえると、この概念には、異なる用法が含まれているように思える。それらを便宜的に、「不平等隠蔽のメリトクラシー」と、「優生学メリトクラシー」の2つに区別できるだろう。


「不平等隠蔽のメリトクラシー」概念は、上の2つの因果関係のうち、第1のものと親和性が高い。ここでの「メリトクラシー」は、現代社会が、前近代の封建社会のように生来の身分関係によってライフコースが決定されてしまう不平等社会ではなく、能力や努力や自由な選択がものを言う、機会平等」の社会であることを示す概念だとされる(「現代社会はメリトクラシーの原理に則った、「機会平等」社会だ」という使われ方が成される)。その「不平等隠蔽」のイデオロギー性は、この概念が、現存する経済状況、または差別心に由来する不平等の実態を、不可視化させる機能を果たしていることにある。「メリトクラシー」の概念は、結果としての「優秀さ」に大きな影響を及ぼす階級状況、差別状況を不可視化させ、ある人の優秀さ/劣等さの原因が、さも彼/彼女の純粋な能力や努力や選択に由来するもののように見せかける、イデオロギー的機能を担った概念だというわけである。


これに対して「優生学メリトクラシー」は、例えば、ジャーナリスト斎藤貴男の著作『機会不平等』のなかで用いられているように、「遺伝子検査による…純粋に知能(メリット)だけを客観的かつ完璧に判定されてエリート教育を施された子どもたちが将来指導的な地位に立つ…公正な社会」(p.56-57)を表す概念である。この用法は、上記の2番目の因果関係、すなわち1世紀前のイギリスの「優生学社会学」が用いた因果関係と親和的である。第1の用法が、正当化されえない「機会不平等」を「隠蔽」する用法だとすれば、こちらは、遺伝子テクノロジーの進展に伴い「機会不平等」を「正当化」する社会のあり方を指す用法である。ここでは、各人の階級状況、差別状況は、結果の不平等を生み出す「原因」として位置づけられるのではない。むしろそれらの諸状況は、個人間の遺伝的能力の差によって生じる、必然的「結果」として位置づけられるのである。


ところで1世紀前のイギリスで見られたような優生思想(「社会ダーウィニズム」とも)の大流行は、現代の日本では見られない。その理由として、「社会権」や「生存権」といった平等主義的倫理概念が、優生思想に対する対抗的思想として、歴史的に発達してことが一要因としてあるのではないかと仮定している。「誰もが健康で文化的な生活を送る権利を平等に持つ」という思想は、「遺伝的・生物学的な劣等者は差別してよい」という思想に、真っ向から対立するからだ。(・・・しかし歴史的説明としては、あまり説得力が無いな。この辺は要勉強。そもそも福祉国家という社会体制が、歴史的には優生思想的な要素と、「社会権」的要素の双方を、同時に孕んで進展してきたという事実がある。これをどう考えるべきだろうか。)


上記の斎藤貴男は、「優生学メリトクラシー」が、「”市場原理主義”と揶揄される新自由主義がグローバリゼーションと称されるに及んで、再び息を吹き返した」(55)と指摘する。斎藤はその例として、現代アメリカの階級格差を優生学的言説によって正当化する書物が、1990年代にアメリカで大ベストセラーになった事実を挙げている。確かに「格差社会」と「優生思想」は、かなり親和性があるように見える。上で示唆したように、優生思想は、不平等の正当化機能を担うからだ。またその一方で、「社会権」概念は、福祉国家体制の転換と軌を一にして、道徳的な批判にさらされている。将来的に強まる可能性のある優生思想的な風潮に反対するためにも、優生思想と社会権概念を、理論的・思想的に対立するものと捉えた上で、説得力ある「社会権」概念の再構築が必要であるように思う。


機会不平等 (文春文庫)

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