音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

イプセン『人形の家』を読んだ

注:本文の引用あり


ちょっと前に紹介した小説、「GO」金城一紀作)のなかに、次のような文章があった。

 僕は小説の力を信じてなかった。小説はただ面白いだけで、何も変えることはできない。本を開いて、閉じたら、それでおしまい。単なるストレス発散の道具だ。僕がそういうことを言うと、正一はいつも、「独りで黙々と小説を読んでる人間は、集会に集まってる百人の人間に匹敵する力を持ってる」なんてよく分からないことを言う。そして、「そういう人間が増えたら、世界はよくなる」と続けて、人懐っこい笑顔を浮かべるのだ。僕は何だか分かったような気になってしまう。(p81)


今日読んだイプセンの『人形の家』(1879)は戯曲だが、そうした「小説の力」のようなものが満ち溢れている気がした。クライマックスでの次のような主人公ノラの叫びに、当時どれだけ多くの女性読者が(そして幾らかの男性もまた)、目を開かされたことだろう。

ヘルメル(主人公ノラの夫): お前の家も、お前の夫も、お前の子供も、みんな捨てて行くのか!世間の人たちがこれをなんと言うか、まるで考えてもいないんだな。

ノラ: 世間でなんと言おうが、そんなことは問題ではありません。そうすることが、あたしにとって必要だということを知っているばかりです。

ヘルメル: いやはや、あきれはてた。それではお前の最も神聖な義務を怠ることになるぞ。

ノラ: じゃあ、あなたは何があたしの一番神聖な義務だと思っていらっしゃいますの?

ヘルメル: それを言って聞かさねばならんのか!お前の夫に対する、子供たちに対する義務でなくってなんだ?

ノラ: あたしには、ほかにも同じように神聖な義務があります。

ヘルメル: そんなものがあるものか。いったいなんだというんだ?

ノラ: あたし自身に対する義務です。

ヘルメル: お前は先ず第一に妻であり、母親であるんだ。

ノラ: もうそんなことも信じません。あたしは何よりも先に、あなたと同じように人間であると信じています、いいえ、むしろ人間になろうとしているところだといったほうがいいかもしれません。世間の多くの人たちはあなたのほうが正しいとするでしょうし、本にもそんなような事が書いてありましょう。それはあたしもよく存じております。でも世間の言う事や本に書いてあることでは、あたしはもう満足していられません。あたしは自分一人でよく考えてみて、物事をはっきりわきまえたいと思っています。(p136-137)


もちろんフェミニズム文学としてこの作品を見た際、当時の婦人解放運動の時代的な限界をいくつも読み取ることができる。例えば階級的視点を踏まえてみれば、現代のフェミニズムにとって重要な場面は、終盤よりもむしろ序盤で、ノラと、ノラの友人のリンネ夫人の間で交わされた、次のようなやり取りではないだろうか。そこには2人の女性の間に厳然と存在する、階級的立場の違いが表されている。

ノラ: あなたは、今まででももうそんなに疲れきっていらっしゃるご様子ですもの。温泉へでもおいでになれたら、きっといいんでしょうにねえ。

リンネ夫人: (窓のほうへ行く)あたしにはそんな旅行のお金を出してくれる父がありませんわ。

ノラ: (立ち上がる)あら、気を悪くなさらないでね!

リンネ夫人: (ノラのほうへ歩み寄って)ノラさん、あなたこそお気を悪くなさらないでね。あたしのような境遇になると、どうも気むずかしくなっていけないのよ。働くめあてもないのに、それでいながら、たえずあくせくしていなければならにでしょう。生きていかなければならないんですもの。そうなると、どうしても人間は利己主義になるのよ。(p21-22)


にも関わらず『人形の家』が現代人である私にも非常に面白く読めたのは、文学作品としての質の高さのせいのみならず、この作品で提起されている問題が、根っこの部分で現代でも変わっていないように感じられたからだ。確かに「わたしは何よりも人間だ」という上記のノラの訴えは、社会的動物としての人間という角度から見た際、現代では非常にナイーブなものに聞こえる。性や階級、民族うんぬんといった諸社会的カテゴリーから離れたまっさらな「人間」という存在を、果たして現実世界で想定することが可能かどうか、それもまた考える余地のある大問題だからだ。(「人間」といえば「男」を意味していた19世紀末当時には、ノラのこの言葉が大きな影響を読者に与えたことは想像に難くないが。)


しかしその一方で、例えば「男らしい」「女らしい」という、従来はポジティブな意味合いで使われてきた言葉が、「男らしくない」、「女のくせに」といったネガティブな意味合いで用いられるやいなや、たちまち現代社会で通用している性をめぐるカテゴリーの欠点があらわになる。そうした問題が存在する限り、『人形の家』の持つ力強さは失われないと思う。矢崎源九郎訳の新潮文庫版で読んだが、訳も平易で読みやすかった。