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某大学教員の日記

藤原保信『自由主義の再検討』

自由主義の再検討 (岩波新書)

自由主義の再検討 (岩波新書)


藤原保信氏の『自由主義の再検討』を読んだ。文章は平易だが内容は充実しており、著者の立場も明解で、最近読んだ新書のなかではベストの1冊だった。全体の構成は、古典的自由主義ホッブズ、ロック、スミス、ベンサム)−マルクス−現代自由主義ロールズノージック、ドゥオーキン)−コミュニタリアニズムの4テーマについて、それぞれ1章ずつ議論が展開されている。


内容を簡単に追うと、第1章では、古典的自由主義の出現によって経済的には資本主義、政治的には議会制民主主義が、それぞれ封建制度のくびきから解放されていく過程が論じられ、最終的に道徳的功利主義の出現によって、行動原理としての「自然的自由の体系」が成立したと論じられる。続く第2章では、この「自然的自由の体系」のもとで発展した資本主義社会の負の側面に目を向けたマルクスの議論が紹介される。J.S.ミルやグリーン、バーリンらの自由論がカットされているのはやや残念だが(紙幅の都合上やむ終えなかったのだろう)、この第1章、第2章の議論の展開は特に丁寧かつクリアで、とても感心させられた。


続く第3章と第4章では、著者の問題意識がより前面に出ている。まず第3章の第1節では、20世紀の社会主義の失敗について論じられる。著者は社会主義の失敗の原因は「マルクスの立論そのもののうちにも内在していた」(p128)と述べ、その「計画経済の問題」、「人間観の問題」、「歴史観の問題」をそれぞれ指摘する。これらの諸問題を指摘しつつ、社会主義の意義について著者は節の最後で次のように述べる。

このことはもちろん、マルクス主義社会主義を、たんなる忌まわしい過去の遺物として歴史の外に葬り去ることを意味しない。むしろ歴史の誤りは誤りとしつつ、なおも人類の共通の遺産として継承され生かされていかなければならない部分はおおきい。とりわけ私有財産と資本主義の悪へのマルクスの告発には他の追随を許さないものを含んでおり、歴史のなかで克服の対象として絶えず自覚されていかなければならないであろう。いなそのためには理念としての社会主義は、その克服の目標として永久に光を放ちつづけるであろう。(p134-135)


この力強い主張に続いて第3章の残る2つの節では「自由主義の陥穽」が論じられる。最初の節では、自由主義のもとで現実にもたらされてきた諸問題、すなわち労働の場で生じる「搾取と疎外」の問題、道徳の場で生じる「物質主義・利己主義」の問題、さらに地球規模で生じる「南北問題と地球環境問題」が指摘される。続くもう1つの節では、これらの諸問題に対して、功利主義に則った古典的自由主義への批判として現れた現代自由主義が、果たして有効な解決策を提示しているかどうかが検討される。


著者のコミュニタリアニズムに則った立場は、この節において明らかとなる。すなわち著者は、ロールズノージック、ドゥオーキンの三者が、各人の理論的相違にも関わらず、いずれも社会的価値の配分の問題、すなわち「正」ないし「権利」の問題のみに目を向け、「いかに生きるべきか」という個々人の倫理をめぐる「善」の問題を避けてきたことを批判する。著者によれば、ロールズらが究極目的や善の領域に踏み込むのを避けたのは、それが「特定の価値観を他人に強要し、その自律性を損なうことになる」(p176)と考えたからである。


しかし著者は、ロールズらのこうした自由主義的立場に一定の理解を示しつつも、それがもたらす価値相対主義的側面を問題にする。すなわち価値相対主義のもとで問題となる人間とは、現実の社会的関係のもとにおける具体的人間ではなく、コミュニタリアニズムの言葉を借りれば「負荷なき自我」(p173)としての抽象的人間である。そして人間をそのようにのみ捉えることは、多分に現実擁護に繋がる恐れがあるとする。

・・・個人は、特定の社会関係から無関係に存在しうるものではないことに注意すべきであろう。むしろその生き方や価値観、行為選択そのものが、意識的、無意識的にその社会によって色づけられ方向づけられている。・・・たとえば今日の高度資本主義社会においては、たんに人々がみずからの欲望にしたがって生きるのみか、欲望が刺激され、駆り立てられ、その結果もたらされる大量消費が大量生産を支えるという循環のなかに巻き込まれてもいるのである。そのような状況を考慮に入れたとき、善悪への問いを回避し、それを個人の選択に委ねることは、そのような状況の支配にそのまま身を委ねることにならないであろうか。むしろそのような状況によってもたらされる一定の生の選択をも反省の俎上にのせ、そのなかで善き生き方を問うことが必要とならないであろうか。(p176-177)


こうした問題意識のもと、終章の「コミュニタリアニズムに向けて」では、「善悪、正邪についての判断基準を提供しうるものとしての道徳的空間と、積極的な問題解決のメカニズムとしての政治的空間とを回復し、経済の世界を逆にそれらに従属させそれによって方向づけ」(p196)うる理論的立場として、サンデル、テイラー、マッキンタイアらのコミュニタリアニズムが紹介される。しかしこの章の議論はやや煩雑であり、「いったい誰がその「善悪の判断基準」を決定するのか」、「権威主義に陥る危険性があるのではないか」、「倫理的可能性のみに目を向けるコミュニタリアニズムこそ、人間を理想化した非現実的立場ではないか」、といった予想される諸批判に対して、充分な回答が展開されているとは思えない。


ともあれ、<経済−政治−倫理>の諸要素のうち、近代においては経済の論理が他の2つの論理を従属させてきたのであり、その観念的側面としての自由主義の再検討によって、経済の論理を相対化するべきだとの著者の問題意識には、同感する部分が多かった。また本書は、以前読んだ塩野谷祐一氏の『経済と倫理』の問題意識とも通じるところがあるように思われる。ただし塩野谷氏がコミュニタリアニズム自由主義の両立を強調していたのに対して、藤原氏のこの著作では、自由主義に対する批判的立場がより強く表れているように感じた。それは塩野谷氏が経済哲学者であり、いっぽう藤原氏が政治哲学者であることにも由来するのかもしれない。コミュニタリアニズムの源流でもあるアリストテレスが、経済学よりも政治哲学の分野でより重要視されていることが、著者の問題意識のあり方にも影響を与えているのかもしれない。藤原氏はこの後、コミュニタリアニズムについてのまとまった著作を書く予定だったそうだが、病により、闘病中に書いた本書が惜しくも遺作となってしまったとのことだ。


以前に書いた関連記事:塩野谷祐一著『経済と倫理』http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20060818