音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

近代は「主観的平等」と「客観的不平等」の時代か?

階級!―社会認識の概念装置

階級!―社会認識の概念装置


社会科学において、階級概念を重視し、主に社会の客観的物質的状況を重視する議論、さらにそこから資本主義経済の客観的弊害を論じる議論は、現代社会において人々の主観的側面が生み出す差別問題の深刻さに対して、理論的に二次的な重要性しか与えない傾向がある。そうした傾向は、本書の次のような議論にも見出せる。

社会的属性にもとづくさまざまな不平等との関係で言えば、階級的不平等は、社会全体を走る格差と不平等の分断線のほんの一部にすぎない。階級以外にも性による分断、民族による分断などが社会の隅々を覆っている。しかし、階級的不平等は他のいかなる不平等にもまして、普遍的であり、構造的であり、体制的である。階級には、不平等を強いるうえでの強い合理性あるいは正当性があるからである。そもそも階級は近代社会の原理である能力主義、自由競争、開放性、等々と親和的であり、両立可能である。これは身分やカーストにはない特徴である。

・・・(中略)・・・

身分的不平等やカーストによる差別、宗教や性や民族による差別や不平等は、近代社会のシティズンシップの原理(T.H.マーシャル)とは相容れないのである。それは「閉じられた」階級社会の原理だからである。それに対し、階級的不平等は開放的な近代社会の原理そのものである。能力主義、自由競争、開放性という市民社会の原理のもとで、階級社会の秩序が日々再生産されている。近代社会は階級性の原理と市民性の原理との二重性を内包して成り立っているのである。

渡辺雅男『階級! 社会認識の概念装置』p60より


本書は社会科学にとっての階級概念の重要性を再提示したという大きな意義を持つ一方で、本書のこの部分には、「市民社会」という理念型から導き出された「演繹型理論」の持つ問題点が存在しているように思える。なぜなら現実の先進資本主義国の歴史をいくら見渡しても、ここで想定されている「近代社会のシティズンシップの原理」のもたらすものが、すなわち身分的平等の達成が、社会的マイノリティの人々にとって充分と思われる程度にまで達成された例は未だ無いからだ。そのことは、T.H.マーシャルがシティズンシップについての論文を発表してから60年経った今でもなお、先進資本主義国では、社会的属性にまつわる無数の差別や不平等が存在していることからも明らかである。


こうした議論の持つ問題点が何に由来しているかと言えば、それが社会的マイノリティへの差別や不平等について、次のような楽観的な考えを暗に持っているからではないか。すなわち、市民的・政治的・社会的権利の付与によって、前近代的な身分的不平等は論理必然的に克服されうるという考えと、さらにそれが実現した近代において第一に問題となるのは、階級原理が生み出す経済的不平等に他ならないという考えである。


経済的不平等が近代資本主義社会の生み出す最も大きな弊害の1つであることは確かである。私自身の立場も、そうした経済的不平等や貧困の問題に最も重きを置くものだ。さらに経済的不平等を生み出す資本主義経済の自由な活動に正当性を付与した自由主義イデオロギーが、近代的シティズンシップを可能にした「近代の原理」として、同時に社会的属性から生じる様々な差別を克服しうる理論的根拠を与えたことも確かであろう。今日の先進諸国における諸差別の理念的・法的否定は、多かれ少なかれ自由主義イデオロギーによって生み出された「人権」「自由」「平等」といった諸概念を理論的バックボーンとしている。


しかしそのことが、イコール社会的属性から生じる差別や不平等が、必然的に克服されるであろう「前近代の原理」に属するということを意味するのだとは思えない。法的・政治的平等がいかに重要であれ、それらが差別や不平等是正に対して全く不充分であることは、「個人的なことは政治的なこと」として、例えばフェミニズムなどが既に1970年代に明らかにしたことではなかっただろうか。社会的属性から生じる差別や不平等は、現実においては能力主義や自由競争の原理と排他的な関係にあるのではなく、むしろそれらと手に手を取って、「市民性の原理」と「階級性の原理」に続く「第三の原理」として、共に近代という時代を構成しているのではないだろうか。こうした社会的属性から生じる差別や不平等の問題を分析する際には、マクロなアプローチとしての階級理論や市民社会理論などによって外在的・演繹的に論じるよりも、人々の主観的側面に目を向けたミクロなアプローチとしての、ウェーバーパーソンズ的な社会理論に則った方が、より現実に即した分析ができるような気がする。


以上は、今月に入ってイギリス世論を二分した、ムスリム女性教師の罷免問題に関する議論を追ったのをきっかけに、悶々と考えたことだ。初めはこの事件について書こうと思ったのだが、途中から考えが脱線しまくってしまい、結局全然関係ないことを書いてしまった。。。ともあれこの出来事は、能力主義イデオロギームスリム差別が親和的に機能している一例だと思うので、イギリスの「今」を知るためには要チェックです。


この事件については、BBCニュース
http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/bradford/6046992.stm 
をとっかかりに、関連記事を辿れる。

またイギリス版「朝まで生テレビ」、Question Timeでの議論の様子は↓から見られる。「朝生」より建設的、民主的な番組です。ちなみにバーミンガムで何度か演説を聞いたRespect党のSalma Yaqoob氏も出ていて、女性教師の罷免はムスリム差別だと喝破している。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/question_time/6065700.stm