音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

ジョセフ・シャピロ『哀れみはいらない 全米障害者運動の軌跡』

哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡

哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡

日本では今年4月から「障害者差別解消法」が施行されるが、アメリカでは類似の法律「障害をもつアメリカ人法(Americans with Disabilities Act, 略してADA)」が、すでに1990年に制定されていた。この本は、ADAの制定に至るまでの1970年代以降のアメリカの障害者運動を描いた一冊だ。500ページ近い大著なだけあって、考察の対象は、ポリオ感染者の自立生活運動、ろう者の分離主義運動、車椅子利用者の交通アクセス運動や車椅子デザイン改良運動、自閉症成人や知的障害者の脱施設化、障害者の安楽死論争と、じつに幅広い。障害とひとことで言っても、その特徴や、障害者が社会で直面する課題がさまざまであることに気づかされる。その一方で、障害者を社会のメインストリームから排除する差別の根底には、常にかれらに対する哀れみ(pity)と嫌悪(hatred)の感情が共通して存在してきたことも示されている。哀れみと嫌悪は、障害者から自立や選択の機会を奪い 、かれらが社会に対して声をあげることを妨げてきたのだ。
 本書では、社会運動を成功させるにあたっての戦略の大切さや(ex. 法律を通りやすくするための保守的言説の使用(p. 171))、大規模施設がケアワーカーや障害者の心身に与える負の影響(虐待に対する感覚の麻痺や自殺願望の強化)が、綿密な取材にもとづく鮮やかな筆致で描かれている。これにより、なぜレーガン政権からブッシュ政権時に至る共和党保守主義の時代にADAのようなリベラルな法案が実現しえたのか、なぜ障害当事者にとって施設よりも自立生活が望ましいのか、なぜ安楽死を安易に肯定すべきでないのかといった、政治、福祉、倫理の諸問題に対する説得的な回答が読者に与えられる。理論的問題への回答を徹底してリアリティの側から与えてくれる、そんなジャーナリズムの意義を再確認してくれる一冊だった。翻訳もとても読みやすい。
 個人的に興味深かったのは、著者がしばしば障害当事者たちのすぐれた「能力」を指摘し、こうした能力を発揮する機会を社会が奪ってきたことを批判している点だ(ex. 「優秀で勤勉な労働者」としての側面(p. 213))。こうしたいわば「能力主義」に基づく障害者権利擁護論は、いかにも個人主義の国アメリカならではと感じた。このあたり、能力主義の思想から距離をおき、「できないこと」をも肯定してきた日本の障害者運動(思想)と比較すると興味深いのではないだろうか。

「重度の先天的障害のある野生チンパンジーの赤ん坊の発見」京都大学HP-研究成果

概要:
タンザニアのマハレ山塊国立公園は、これまで50年近くの間、野生チンパンジーに関する研究が京都大学を中心とする研究チームによって継続されてきました。研究対象のチンパンジー集団(M集団)については、チンパンジーの出生年や血縁関係、個体ごとの行動の特徴など詳細な情報が蓄積されてきました。今回、研究チームは、2011年にマハレのM集団において重度の障害のある赤ん坊が生まれたことを発見し、その後赤ん坊が消失するまでの約2年間の行動を記録しました。
その結果、今回観察された障害児の特徴が、過去に報告されたダウン症様の個体の症例に酷似していることがわかりました。野生下でダウン症様の赤ん坊が発見され、しかも2年近く生き残った事例が報告されるのは今回が初めてです。また、他個体からのケアとして、他個体がその赤ん坊に対して恐れや攻撃といった特異な反応を示さなかったこと、母親が過去の子育てとは異なる方法(腹に掴まった赤ん坊に片手を添えつつ移動するなど)で障害児を育てていたこと、障害児の姉が母親の代わりによく世話をしており、その姉が自身の子を出産した約1ヵ月後に障害児が消失したことがわかりました。重度の障害のある赤ん坊が野生下で2年近く生き残ることができた要因として、母親による柔軟な子育てや姉の世話といった他個体からのケアが影響を与えていた可能性があります。

URL:http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2015/151109_1.html

社会思想史学会で研究報告

週末は関西大学で行われた社会思想史学会に行ってきました。自分も二日目の今日、朝一のセッションで報告してきました。私の報告のテーマは、政治思想史研究の方法論についてでした。
実はこのテーマは、大学院の時以来の、自分にとってのいわば宿題と言えるものでした。大学院に入って以来、私はもっぱらホブハウスをはじめとする英国ニューリベラリズムの思想を研究してきたわけですが、実は研究の意義を見失いかけることもよくありました。それはいうなれば、自分の研究には「誰が何言った」を示すこと以上の、いったい何があるのだろうか、という問いによる悩みでした。博士課程でイギリスに留学してからは、博論の完成を最優先にしたこともあり、この問いをいったん棚上げにしていたのですが、日本帰国後は、折に触れてまた考えるようになっていました 。
今日の学会報告では、自分自身に課していたこの宿題にようやく少し方向性を与えることができ、その意味ではとても意義深いものになりました。そこで大きな助けとなってくれたのは、理論系の若手研究者の方々と一年ほど前から続けている研究会でした。この研究会でラクラウやセン、ハバーマス、ホネットなどの議論を考察し、大きな知的刺激を受けるなかで、政治思想史研究に対する自分なりのスタンスも少しずつ見えてきたような気がします。
もちろん、方法論を考え始めてまだ日も浅いために、今日の私の報告内容はかなり荒削りなものでしたし、フロアの先生方からの重要な質問にもなかなか十分に答えることができませんでした。具体的に言えば、今日の私の報告は、「ポスト基礎付け主義」の時代と呼びうる現代において政治思想史研究がいかに規範を語りうるか、という問題を考察するもので、私の主な主張は、マイケル・フリーデンのイデオロギー研究の手法を用いることで、政治思想史研究も規範を有効に語りうる、というものでした。私がうまく答えられなかったのは、フリーデン自身は経験的研究としてとらえているイデオロギー研究から、それ自体で何か規範的と言える見解を導きだすことができるのか、という(数人の先生方から共通していただいた)重要な質問に対してでした。
これはいうなれば、基礎付け主義的に普遍的規範の提示にコミットするレオ・シュトラウス的な哲学的方法と、そうした規範的・現代的意義を問わないクエンティン・スキナー的な歴史学的方法の間の、果たしてどこにフリーデンのイデオロギー研究を位置づけるべきか、という問題です。この問いに対する自分なりの答えをもてない限りは、方法をめぐる自分の立ち位置についての悩みからは、依然抜け出すことはできないと言えそうです。
ともあれ、研究会を足がかりに、この夏、研究方法について集中的に考え、その成果を学会報告にまとめ、今日とても有益なフィードバックをいただけたことは、大きな収穫でした。分からなかったことが少し分かるようになり、でもそうするとさらにまた分からないことがでてくる。そしてそうした一連のプロセスが、自分自身の理解を深めてくれる。このような、いわば「研究の辛さと楽しさ」を、この間、ぞんぶんに味わうことができたような気がします。これからさらに精進して、自分なりの立ち位置を見出していきたいと思います。
その他、今回の学会では、イギリス留学時に留学の先輩としてよくブログを読んで励みにさせていただいていた方とはじめてお会いできたり、ヴィクトリア期英国ミドルクラスの女性の精神性についての非常に精緻な歴史実証研究を聞き当時の英国世界にどっぷり浸ったり、シンポジウムのゲスト・スピーカーとして登壇された上野千鶴子先生が学会全体に非常に重要な問題提起をされているのを目の当たりにしたりと、刺激的な出来事がたくさんあってとても充実した学会でした。社会思想史学会はいつ行ってもとても自由闊達な雰囲気にあふれていて、思想系のなかでも私はかなり好きな学会だな、という気持ちを今回強くしました。

育児(と家事)の辛さと喜び

父親業も気づけばはや2年6か月(子どもが2人になってからは約1年)。これまで家事育児(主に育児)を通して私が感じてきた辛さと喜びのもっとも典型的な部分を、以下に簡単にまとめておきたいと思います。

1.身体的辛さ
→うちが年子なこともあり、家事育児中は休めないことがとにかく辛いです。仕事ならある程度自分なりのペース配分ができますが、育児は常に子どもペース。まったく気が休まらず、疲労は蓄積する一方です。たまに子どもが二人ともお昼寝してくれる「奇跡の時間」が訪れますが、だいたい5分で終了します。夜の寝かしつけも大変だし、寝てくれた後は溜まった家事やら子ども関係の事務作業やら、翌日の仕事の準備やらで、夜遅くまでかかります。それまで8時間だった私の平均睡眠時間は、子どもが生まれてからは5時間に減りました。ちなみに家事育児の主要担当者は育休中の妻で、妻だけでは回らないところを私がやっています。それでこの大変さなのだからたまりません。

2.精神的辛さ
→家事育児中に定期的に訪れる「時間を無駄にしている」感。具体的には、家事育児によって自分の研究時間が減っていることへの焦りからくる精神的辛さです。「家事育児をしている今この時間を研究に充てたい!」という気持ちが定期的にふつふつと湧き上がります。とくに論文や学会報告原稿の締切前や、同年代の研究者が着実に研究成果を出しているときなどに、この気持ちに陥りやすいのです。この焦りの感情にとらわれている時は妻への配慮も怠りがちとなってしまい、夫婦喧嘩にもなりやすいです。。。

3.身体的喜び
→子どものかわいさからくる喜び。完全に親バカ的コメントですが、自分の子どもが世界で一番かわいいと思ってしまいます。身体的な面で言えば、あんなに小さくてやわらかいものをぎゅーと抱っこしたときの気持ちよさと言ったら、他に代わるものはありません。あと子どもの笑顔から元気をもらえるとよく言いますが、これも本当でした。減ってしまった睡眠時間の分の体力を、今は子どもの笑顔からもらっているという感じです。

4.精神的喜び
→子どもと自分自身の成長からくる喜びというのが何よりも大きいです。立った・歩いたなどの大きな成長に加えて、小さい事でも子どもが昨日までできなかったことを今日できているのを、毎日のように発見します。これは本当に感動的です。また「自分に絶対的に依存するもの」としての子どもができてから、私自身の精神力も確実に強くなりました。責任感とか忍耐力とか利他心とか、あえて言語化するならばそういうものです。これがけっこう日々の生きる活力になっています。

以上書いた4つの事柄が、子どもが生まれてからこの方、私の生活のエッセンスであり続けています。多分、どれも子どもが小さいうちに特有の事柄で、多くは子どもの成長とともに減っていったり、無くなっていったりするものなのでしょう。家事・育児に仕事・研究と、毎日が本当にあっという間ですが、あとになって忘れてしまうのももったいないと思い、ここに書いておくことにしました。

研究会で報告

ものすごく久しぶりの更新になってしまいました。昨日は都内の某研究会でニューリベラリズム福祉国家思想について報告してきました。昨年某学会誌に掲載した拙論が今回お声をかけていただいたきっかけになったようです。論文を書くという行為は、他の研究者の方との新しいネットワークを築くためにも重要なことだなあと、改めて思いました。当日は、普段なら学会でお見かけしても恐縮してしまいなかなか話しかけることのできないような、政治思想や社会思想の第一線の研究者の先生方が多く参加されており、そんな方々に私の研究に約3時間もお付き合いいただいたわけで、私にとって大変贅沢な時間となりました。数々の有益なコメントをいただきましたが、まずはラスキら20世紀前半の多元主義社会主義、また19世紀のスペンサーの自由主義社会学と、ニューリベラリズムの思想的関係が、後者の思想史上の位置把握のために最重要ポイントになることを痛感しました。これは言い換えれば、ニューリベラリズムが19世紀の自由主義から引き継ぎ、また20世紀の労働党社会主義へ残した思想的遺産をそれぞれどう評価すべきかという問題でしょう。特に前者について、スペンサーがきわめて論争的な存在であること(彼の道徳原理には自由主義的要素が色濃いが、優生思想や機械論的社会進化論はむしろ保守的)を、改めて確認できました。またある先生方からは、ケインズ自由党にとどまった背景にあった、彼の倫理・社会思想についての私の理解の浅さを指摘されました。これは功利主義とイギリス自由主義との関係にもかかわり、今後の重要な宿題となりそうです。
 そんなわけで昨日は非常に多くの知的刺激を受けた研究会となりました。実はこの夏は8月にも2回、ホブスンの経済思想とフリーデンのイデオロギー研究について、学会や研究会でそれぞれ報告する機会があって、けっこう研究面でも忙しくしていました。まだいずれも生煮え感がありますが、博論で行ったホブハウス研究とあわせて、そう遠くないうちに自分なりのニューリベラリズムの全体像の把握を行えればなあと願っています。

『イギリス哲学研究』第38号(2015)が届く

手元に今年の『イギリス哲学研究』(日本イギリス哲学会の年報)が届いたのでざっと読む。特に自分の研究に大きく関わる以下の二篇を面白く読んだ。

①論文:尾崎邦博「D.G.リッチーとJ.A.ホブスン――財産権についての比較考察――」

ともにニューリベラリズムの思想家として共通項に注目が集まる傾向にあるリッチーとホブスンだが、財産権の概念をめぐっては鋭い差異が存在していた。そのことが明快にまとめられている。私なりに要点を整理すれば、リッチーが財産の源(source)を重視したのに対して、ホブスンは財産の機能(function)をより重視した。リッチーの名前が論文のタイトルに入るのは、日本の学会誌ではこれが初めてではないだろうか。その意味でも意義ある一篇。リッチーにやや批判的な結論部分(「彼のように伝統的な財産権の虚構性を暴露するだけでは、社会改革のための経済的正義の原理は生まれてこない。」(p.24))の妥当性については、彼の国家論や進化思想を交えて考察する必要があると思われ、ひとまず保留。さらなるリッチー研究の深化が望まれる。


②書評:小田川大典『イギリス理想主義の展開と河合栄治郎―日本イギリス理想主義学会設立10周年記念論集』(行安茂編、世界思想社、2014年)

 内容の紹介にとどまらず、本書成立の「知識社会学的」背景や、British idealismの訳語問題にまで踏み込んだ、きわめて興味深い書評だった。評者の小田川氏自身は、D・バウチャーとA・ヴィンセントのBritish idealism(2012)の記述(「日常語において、この語〔=idealism〕は、非現実主義や過剰なユートピア主義という侮蔑的なレッテルをはられている。しかし哲学的なアイデアリズムは、こうした日常語でいうアイデアリズムとは無関係である。」)を引きつつ、British idealismを「イギリス観念論」と訳すことを提唱している。
 大筋では同意するが、やっかいなのは、British idealismが、リアリティの認識のあり方を問題とする「(認識論)哲学」にとどまらず、倫理思想、政治哲学、社会政策論と、非常に広がりをもつ思想だった点だ。そして倫理や政治の次元における彼らの思想には、良し悪しは別として、「ユートピアを希求する」要素が多分に見受けられるように思う(グリーンやボザンケの「共通善」概念など)。
 結局、訳語は研究者がidealismのどの次元を重視するかに多分に左右されるのだろうし(たとえば上述のバウチャーとヴィンセントの二人のidealism研究にも、前者が認識論を、後者が倫理思想や政治哲学を重視するという違いが見受けられる)、であるならば、無理に統一される必要もないのかもしれないとも思う。いっそ「ブリティッシュ・アイデアリズム」とカタカナ表記するか。でもちょっと長すぎるなあ・・・


British Idealism: A Guide for the Perplexed (Guides for the Perplexed)

British Idealism: A Guide for the Perplexed (Guides for the Perplexed)

健康は大事・・・

3週間ほど前からしつこい咳が続いていたので内科で診てもらったところ、細菌性の気管支炎と診断されてしまいました。抗生物質を飲む3日間は安静にして、子どもに近づいてはダメとのお達しも。

その間の育児はすべて妻にやってもらうことになってしまい、申し訳ないな(でも休めてラッキー!)と思っていたら、昨日はもうすぐ2歳になる娘も激しく咳き込んでいるではありませんか。病院に連れていってもらったところ、何とこちらも気管支炎との診断。しかもけっこう症状が重かったようで、すぐ入院、と言われてしまいました。私と娘のどちらかが、相手にうつしてしまったようです。病院から帰ってきた妻によれば、娘は展開の速さについていけず、終始不安&不機嫌だったとのこと。当然ですね。私が感染源だったら、これまた申し訳ない・・・

思えばここ数か月は、どうも健康状態が不安定でした。年末に咳続く→抗生物質→正月にインフルエンザ→寝正月→1月後半も風邪気味→マスクして仕事→2月のイギリス研修(学生10数名を2週間ガイド)は気合いで乗り切る→しかし帰国後なかなか体力と時差ボケが回復せず→3月の入試期からまた咳続く→気管支炎と診断(←今ここ)。

(しかも昨夜はもらった抗生物質があわず、トイレで強い副作用に苦しむというおまけつきでした・・・)

こうした不安定な健康状態には、(1)4月からの新しい職場で疲れがたまっていた、(2)秋に下の子が生まれて育児の忙しさに拍車がかかった、(3)加齢による体力低下、(4)運動不足による体力低下、など複合的な要因がからんでいるように思います。あと意識の面でも、どこかで「1人で悠悠自適だった20代の留学時代の自分」のままでいたようです。加齢という現実をしっかり直視しつつ、また仕事も研究も子育ても長距離マラソンと心得て、健康管理にもう少し気をつけようと思いました。