音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

社会思想史学会で研究報告

週末は関西大学で行われた社会思想史学会に行ってきました。自分も二日目の今日、朝一のセッションで報告してきました。私の報告のテーマは、政治思想史研究の方法論についてでした。
実はこのテーマは、大学院の時以来の、自分にとってのいわば宿題と言えるものでした。大学院に入って以来、私はもっぱらホブハウスをはじめとする英国ニューリベラリズムの思想を研究してきたわけですが、実は研究の意義を見失いかけることもよくありました。それはいうなれば、自分の研究には「誰が何言った」を示すこと以上の、いったい何があるのだろうか、という問いによる悩みでした。博士課程でイギリスに留学してからは、博論の完成を最優先にしたこともあり、この問いをいったん棚上げにしていたのですが、日本帰国後は、折に触れてまた考えるようになっていました 。
今日の学会報告では、自分自身に課していたこの宿題にようやく少し方向性を与えることができ、その意味ではとても意義深いものになりました。そこで大きな助けとなってくれたのは、理論系の若手研究者の方々と一年ほど前から続けている研究会でした。この研究会でラクラウやセン、ハバーマス、ホネットなどの議論を考察し、大きな知的刺激を受けるなかで、政治思想史研究に対する自分なりのスタンスも少しずつ見えてきたような気がします。
もちろん、方法論を考え始めてまだ日も浅いために、今日の私の報告内容はかなり荒削りなものでしたし、フロアの先生方からの重要な質問にもなかなか十分に答えることができませんでした。具体的に言えば、今日の私の報告は、「ポスト基礎付け主義」の時代と呼びうる現代において政治思想史研究がいかに規範を語りうるか、という問題を考察するもので、私の主な主張は、マイケル・フリーデンのイデオロギー研究の手法を用いることで、政治思想史研究も規範を有効に語りうる、というものでした。私がうまく答えられなかったのは、フリーデン自身は経験的研究としてとらえているイデオロギー研究から、それ自体で何か規範的と言える見解を導きだすことができるのか、という(数人の先生方から共通していただいた)重要な質問に対してでした。
これはいうなれば、基礎付け主義的に普遍的規範の提示にコミットするレオ・シュトラウス的な哲学的方法と、そうした規範的・現代的意義を問わないクエンティン・スキナー的な歴史学的方法の間の、果たしてどこにフリーデンのイデオロギー研究を位置づけるべきか、という問題です。この問いに対する自分なりの答えをもてない限りは、方法をめぐる自分の立ち位置についての悩みからは、依然抜け出すことはできないと言えそうです。
ともあれ、研究会を足がかりに、この夏、研究方法について集中的に考え、その成果を学会報告にまとめ、今日とても有益なフィードバックをいただけたことは、大きな収穫でした。分からなかったことが少し分かるようになり、でもそうするとさらにまた分からないことがでてくる。そしてそうした一連のプロセスが、自分自身の理解を深めてくれる。このような、いわば「研究の辛さと楽しさ」を、この間、ぞんぶんに味わうことができたような気がします。これからさらに精進して、自分なりの立ち位置を見出していきたいと思います。
その他、今回の学会では、イギリス留学時に留学の先輩としてよくブログを読んで励みにさせていただいていた方とはじめてお会いできたり、ヴィクトリア期英国ミドルクラスの女性の精神性についての非常に精緻な歴史実証研究を聞き当時の英国世界にどっぷり浸ったり、シンポジウムのゲスト・スピーカーとして登壇された上野千鶴子先生が学会全体に非常に重要な問題提起をされているのを目の当たりにしたりと、刺激的な出来事がたくさんあってとても充実した学会でした。社会思想史学会はいつ行ってもとても自由闊達な雰囲気にあふれていて、思想系のなかでも私はかなり好きな学会だな、という気持ちを今回強くしました。