音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

デイヴィッド・ミラー教授の講演を聞く

今日はオックスフォード大学からデイヴィッド・ミラー(David Miller)教授が講演に来ていました。ミラー教授の研究はこれまで邦訳の『政治哲学(1冊でわかる)』しか読んだことがなかったのですが、こちらでは相当著名な政治理論家のようで、数百人規模の講義室が聴講生でいっぱいでした。「グローバル・シティズンシップの可能性」というテーマでお話されていたのですが、結論から言えば、グローバル・シティズンシップという国境を越えた政治的関係性を実現することは、価値多元的な現実世界においては不可能であるということでした。

意外だったのは、リベラルを自認するミラー教授が、シティズンシップをナショナリズム(ミラー教授は「ナショナリティ」という概念を使っていました)によって維持すべきと強調していたことでした(意外というのは単に自分が無知だっただけで、英米圏の政治理論では「リベラル・ナショナリズム」というのはよく知られた立場のようです)。僕はこちらに来る直前に丸山真男を少し読んでいたこともあり、ナショナリズムの意義を説くミラー教授の議論に、最初は大きく違和感を覚えました。

でも少し違った観点から考え直すと、僕の感じた違和感は、文化的に同質性の高い日本と、そうではないイギリスの、社会的な違いから来るものかもしれないな、とも思いました。日本は学校や職場など集団における構成員の価値観の同質性が高い水準で維持されている社会であることから(「KY」などはその象徴的な言葉だと思います)、そのような同質性(とその裏返しの排他性)を極限まで推し進めたナショナリズムという意識に対しては、その実際の歴史的帰結も含めて、知識人・言論人が批判的になる傾向が強いのだと思います。そして同質的な社会の病理もまた実際によく見えることから、個人の自由や個性といった、個人主義的な理念の意義が強調される傾向にあるのではないでしょうか。

これに対して移民社会であるイギリスでは、基本的に人と価値観や生活パターンが違って当たり前、という差異性の感覚がより強い社会であるように思います。ここから、多様な価値観を持つ人々がいかにして安定した社会を築けるかという「社会統合」の問題が、より重要になってくるのだと思います。そのため、文化的背景は違っても我々は共通した国民文化を共有するイギリス社会の構成員である、というナショナリズム(に基づくシティズンシップ)の感覚を鼓舞することが、社会の安定的統合という観点から大きな意義を持ってくるのかもしれません。単純な図式ですが、ミラー教授の講演を聞きながらそんなことを考えました。


政治哲学 (〈一冊でわかる〉シリーズ)

政治哲学 (〈一冊でわかる〉シリーズ)

National Responsibility and Global Justice (Oxford Political Theory)

National Responsibility and Global Justice (Oxford Political Theory)

On Nationality (Oxford Political Theory)

On Nationality (Oxford Political Theory)


追記:kihamuさんよりアドバイスを頂き、On Nationalityにも邦訳が存在することが分かりました。

ナショナリティについて

ナショナリティについて

また、杉田敦先生による同書への批判的な書評も見つけました。「無断転載禁止」とのことですので、リンク先のみ紹介しておきます。
http://www.fuko.co.jp/tayori/tayori_033_a%20.html