音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

思想史方法論

1. Andrew Vincent, "The Nature of Political Theory" (Oxford, 2004)の「政治理論史」の方法論についての項を読解・ノート。分析的政治理論学派、スキナー(およびポーコック)の「意図−文脈」学派、レオ・シュトラウス学派の対比。僕は個人的には、歴史性・文脈性を捨象して論理のなかに埋没する第一の立場も、それとは逆に思想家の意図と歴史的文脈の再現に終始して歴史研究の現代的意義を顧みない第二の立場にも、賛同できませんでした。三つの方法のなかでは、歴史的文脈性を重視しつつも過去の哲学に普遍的な問題への接近を見出そうとするシュトラウスの問題関心に、一番共感できました。


The Nature of Political Theory

The Nature of Political Theory


2.その流れで、日本から持ってきていた下記の論文集のなかの「レオ・シュトラウス−テクスト解釈の課題と方法」の章(飯島昇蔵)を読解。


政治思想史の方法 (政治思想研究叢書)

政治思想史の方法 (政治思想研究叢書)


恥ずかしながらシュトラウスについてはこれまでほとんど勉強したことが無かったのですが、この論文を読む限り、「ブッシュ政権時のネオコンのブレーン」といったよく言われるシュトラウス理解は、誤っているか、あるいは弟子によるシュトラウス哲学の歪曲に由来する見解であるようです。方法の背後に見て取れる彼の問題関心は、以下の引用文にも顕著なように、良かれ悪しかれリベラルのものであるように思いました。

[哲学者の無階級性について:] 知識社会学が誤っているのは、シュトラウスによれば、それが、所与の哲学は、それが属している社会や民族や階級などの意見の単なる反映にすぎないということを当然視しているからであり、哲学者としての哲学者の階級的利害が存在している事実を見落としているからである。哲学と社会との本質的調和の当然視、そして、このような当然視の原因でも結果でもある、哲学者に固有の階級的利害を認めないことは、いわゆるマルクス主義的な理解にも共通するものであるとシュトラウスは考えている。・・・思想は歴史(社会)によって条件づけられているのではない。ただ思想が表現される様式のみが歴史的に条件づけられているのである。それは思想家がかれが偶然にも置かれた環境(単に自然的環境のみならず、道徳的ならびに知的環境を含めて)に意識的・意図的に適応した結果なのである。(p.52)

[リベラル教育の意義について:] 「偉大な精神との不断の交流に存する自由教育は、卑下とは言わないまでも、最高次の形態の慎みにおける教育である。それは同時に大胆さにおける教育である。それは、知識人の敵の騒音、慌ただしさ、無思想、安っぽさと同様に知識人の虚栄の市のそれらとの完全な断絶をわれわれに要求する。それは、受け入れられている見解を単なる意見にすぎないとみなす決意や、平均的な意見を、最も奇妙な意見あるいは最も不人気である意見と同じくらい間違っている可能性が少なくともある極端な意見とみなす決意に含意されている大胆さをわれわれに要求する。自由教育は俗物性からの解放である。(シュトラウス, "Liberalism Ancient and Modern" (1968: viii)からの引用文)」(p.73)