音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

勉強についてつれづれ

長らく更新が滞ってしまった。ゼミでの発表が近づくと、どうしてもそれにかかりっきりになってしまうなあ。ようやく今度の報告の本文を書き始めたのだが、結局どれだけ偉そうなこと書こうとしても、ちゃんと勉強してノートに取ったことからしかまともな文章というのは書けないものだ。勉強したことを離れて色々書き出すと、途端に単なる「妄想」となってしまう。かと言ってそれまで勉強したことだけをうまくまとめれば、報告としてそれで良いかと言えば、やはりそれでは不充分な訳で、自分独自の問題の組み立て方をどれだけ打ち出せるかが大切なのだ(まあノートをそのまま写してきたような報告も中には多いが)。というか自分独自の視点というものがなければ、修士論文などとても書けるものではないだろう。難しいっす。

以前の発表では、「社会政策史と社会思想史、どっちをやるのかはっきりしろ」みたいなことを、博士課程の人に言われた。自分の研究分野をはっきり見定めろということだ。その時はそうかなあと思って、しばらく思想史を中心に勉強していたのだが、やはり自分の問題関心との間に違和感が生じてきた。私の問題関心は、端的に言えば思想が政策にどこまで反映されたのか、ということだ。要はイデオロギーと現実の相互関係の問題だと思う。しかしそれを歴史研究で実証的に追っていくのは、「とっても難しいよ!」とゼミの先生にも言われた。やはり狭い研究分野に閉じこもれってことなんですかね。それとも広い視野を持ちつつも、修論には狭い視野で臨むという折衷主義が望ましいのか?

ちなみに上の指摘は全て副ゼミでのことで、主ゼミの先生は全く逆のことを言う。曰く「社会学とか経済学とか政治学とか、自分の研究分野は何?ということにこだわるな。何が一番自分にとって切実な問題なのか、それをただ追究しろ。それが社会科学である!」云々。私は学部の3年生の時からこの先生についているため、先生の考えにはとても影響されてきた。しかし基礎的な知識が欠けた段階でこうした考えにやられてしまうと、自分勝手に面白くて読みやすい本ばかりを選んで読んでしまうという危険性がある。私にはどうも少なからずその傾向があるようだ。大局的な視点と綿密な知識は、ある程度トレードオフの関係にあるような気がする。悪い具合だと、それぞれ大雑把な議論か、あるいは重箱の隅をつつきすぎるような議論のどちらか一方に偏ってしまいかねないだろう。