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某大学教員の日記

ケン・ローチ監督作品「麦の穂をゆらす風」:朝日新聞夕刊より

14日付朝日新聞夕刊の芸能欄に、ケン・ローチ監督の新作「麦の穂をゆらす風」が紹介されていた。ウェブ上では同記事を見つけられなかったので、ここに全文引用する。

力強く「今日的」な出来 −映画「麦の穂をゆらす風」−

 イギリスの巨匠ケン・ローチといえば、政治と社会に対する意識の極めて高い映画作家である。おそらく当代随一。そのローチの、これは、アイルランド独立運動をテーマにした歴史ドラマである。剛直で、峻厳で、誠実な作りに、ローチの面目が躍如としている。
 1920年アイルランド。イギリスの圧制下にあって、独立のための抵抗運動が勢いを増している。ロンドンで医者としての明るい前途が待つデミアンキリアン・マーフィー)は、イギリス軍の暴虐に屈しない同胞を知って、兄のテディ(ポドリック・ディレーニー)に続き、義勇軍に身を投じる。
 ローチの語り口は、例によってリアルなことこの上ない。しかも、簡潔で、力強く、無駄がない。ゲリラ戦、仲間の裏切り、逮捕、脱出…。テディが手の生づめをはがされる拷問の場面など、テディの悲鳴とそれを聞くデミアンたち仲間の抵抗歌合唱で、映画の主題を象徴的に表現して、水際立っている。それに、殺伐たる物語にアイルランド南部の牧歌的風光をとりあわせる手際も鮮やかだ。
 21年、停戦、講和。北アイルランドの英国帰属や英国王への忠誠を誓うアイルランド自由国を承認する者と、完全独立を唱える者とに世論は二分する。賛成派のテディと反対派のデミアンを巻き込んで、事態はやがて内戦へと突入する。
 ローチ作品のなかでは、スペイン内戦を描いた「大地と自由」(95年)に連なる、政治色の強い作品である。ここでもローチの態度は明快だ。その性根に揺るぎはなく、はっきりと、貧しくて弱い者の味方、デミアンの肩を持つのである。
 しかし、これは政治映画だろうか。違うだろう。映画の主眼は、やむにやまれず政治にかかわることになった普通の男たち女たちの悲劇にあるからである。人と人が殺し合うことのむなしさにあるからだ。ローチは、陰で、世界のどこかで政治に翻弄されている一般の人々の悲しみを思いやっている。
 06年カンヌ映画祭パルムドール受賞のこの歴史ドラマは、優れて今日的と言えようか。
秋山登・映画評論家)


ビッグな監督が揃った「明日へのチケット」(ケン・ローチエルマンノ・オルミアッバス・キアロスタミ3監督の合作!)と並んで、早く観に行きたいなあ。


 ところでこの記事の最後から2つ目のパラグラフ中の、「映画の主眼は…人と人が殺し合うことのむなしさにある」の部分の記述は少し気にいらない。私はまだこの映画を観ていないので意見するべきでないかもしれないが、ローチ監督の他の作品を考えれば、この記述は不充分だと思う。なるほどローチ作品が、常に個々人に寄り添うように、いわば「地を這う虫の視点」から描かれるという点だけを見れば、秋山氏の指摘は間違っていないと言えるだろう。しかしローチ作品の特色はそのことだけにとどまらない。ローチ作品の最大の特色は、むしろここでいう「政治に翻弄されている一般の人々」について、「どのように彼らがそうなってしまったのか」というより大きな問題を、常に私達に意識させ、考えさせるという点にあるように思われる。つまり個々人が、彼らの外側に存在するより大きな社会的・政治的変動に、どのように巻き込まれているのか、そうした個人と社会、個人と国家との繋がりのあり方を、冷静な視点で描き出すことがローチ作品の「主眼」なのだと思う。


その意味で、ローチ作品は徹底的にヒューマニスティックであると同時に、徹底的にリアリスティックなのである。ローチ作品は、「戦争はいけない、むなしい。平和が一番だ。」といった、よくある単純で感情的な反戦ものでは決してないのだ。


以前書いた関連記事:「ケン・ローチ監督、パルムドール賞受賞!」http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20060529
麦の穂をゆらす風」日本語公式サイト:http://www.muginoho.jp/