音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

翻訳少し+授業2コマ

今日の研究は翻訳25分くらいのみ。水曜日はほとんどが授業の準備と授業(2コマ)に費やされる。朝の子どもたちの保育園送りを早めれば、もう少し研究時間を確保できるのかもしれない。だがそのためには睡眠時間を削らなければならず、健康面への影響が心配になる。毎日の睡眠時間は6時間~6時間半ほど。これ以上削ると風邪ひいたりと身体にいろいろと負荷がかかる。

久しぶりの更新

とても久しぶりにブログを書いてみる。ブログというもの自体がもう流行遅れになっているような気もするし、読んだり書いたりする人もだいぶ減っているのだろうが、まあ自分用のメモとして使えるだろう。

上の子が、この春に6歳になった。ずいぶん成長したな、と感じる。しかし、年子と夫婦フルタイム共働きのせいで、相変わらずいつも忙しい。加えて仕事では、新しい校務や授業負担はどんどん増えている。実は去年の4月に他大学に移ったのだが、私大から私大へ、という異動だったので、教育と校務の量は基本的に変わらない。

これは子どもが生まれてから何度も書いていることだが、望むような研究時間が取れないし、学会や研究会にもなかなか行けない日々は相変わらず。まあ、これが自分の選んだ道なのだといいかげん観念して、少しでも空いた時間を大切にすべきなのだろう。

そんななか、昨日は久しぶりに学会報告をしてきた。とても有益な質問や指摘を、フロアの方々からいくつもいただけた。他の人に聴いてもらうことで、自分では気づかないことに気づかせてくれる。やはり研究報告はとても大事だ。

時間が限られるなか、研究の企画自体は、昨日の報告内容を論文にまとめることを含めて、5つくらいのことを同時に進めている状況で、けっこうたいへんだ。さぼらず、ひとつひとつ目の前のことを大事にやっていくことを心がけようと思う。(といいつつ、早くこれまでの研究を本にまとめたい、という夢想もしている。)

今日の研究時間は30分だけだったが、バーナード・ボザンケの『パトリオティズム研究 社会的・国際的な理想のありかたについて』(Social and International Ideals:
Being Studies in Patriotism)(1917)を読み始めた。もっか英国慈善組織協会の思想研究に取り組んでおり、その一環として。タイトルからはやや意外なことに、この本に収録されている論文の5分の4は、慈善組織協会の機関誌に投稿されたものなのである。

キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』第二部ノート


愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

ロールズ批判の部分(第二部「政治的リベラリズムと人間の依存」)を読んだ。以下は自分なりのまとめ。

これまで政治理論は、児童や要介護高齢者、障害者など、ケアを必要とする「依存者」と、依存者をケアする「依存労働者」をとりまく諸問題を、政治理論の対象でなく私的な問題とみなしてきた。リベラリズムもまた、他者から自立し、他者に無関心で(=自己利益のみを考えることが許される状況にあり)、理性を備えた特殊な「個人」のモデルにもとづき、「公正な社会」の設計をおこなってきた。

だが、(1)ケアを担うべきか否かが当人の社会的地位に多大な影響を与えること(=育児や介護を担う人は、そうでない人よりもキャリア上不利益を蒙りやすい)、(2)誰しも人生のある時点では「依存」状態に置かれることを考えると*1、依存とケアを考慮しない正義論は不十分である。

残念ながら、現代リベラリズムの代表格であるロールズの正義論において、依存とケアは関心の枠外である。ロールズが前提とする個人は、「全生涯を通じて十分に社会的協働が可能な成員」からである。ここで「全生涯」を児童期や老齢期を含まないものと弱く解釈したとしても、「社会的協働」が可能であることという、後半のカント的人間観がネックになる。これのせいで「十分に社会的協働が可能な成員ではない」重度障害者は、「人間の生にとっては例外的であって正常な状態の一つではない」と判断されてしまう。この判断の問題は、第一に、重度障害者がロールズ正義原理の保護外となるからであり、第二に、重度障害者を「異常」とみなす差別的人間観へとつながるからである。

またロールズは、ケアを女性の私的領域(「正義」ではなく「善」の問題)の話だと理解しているのだろう。自由が制約され、かつ社会的地位が低く収入も低い依存労働者についても、積極的に理論化しようとはしていない。

したがって、ロールズが平等に保障されるべき権利とみなす諸々の基本財のリストには、「ケアを受ける権利」や「ケアを引き受けざるをえないときに十分な支援を社会から受ける権利」や「尊厳や自尊を奪われない依存やケアへの権利」は含まれない。

しかしながら、依存とケアは正義に直接かかわる問題である。第一に、ロールズ的個人観にしたがったとしても、「無知のヴェール」において、依存者や依存労働者になる可能性を考慮することは、じゅうぶん「合理的かつ道理にかなっている」。第二に、ケアが多くの人(とりわけ女性)にとって事実上「押しつけられた(=自由に選び取られたものではない)」ものである以上、ケアに付随する社会的地位や自尊の毀損は、正義に反している。第三に、(これはリベラリズムがとらえ損ねている点だが)幸福や福祉にとって人間関係が中核的な価値をもつものである以上、「依存とケア」という、あらゆる人にとって人間関係の基礎になるものは、社会秩序の基礎としても認識されるべきである。

したがって、正義の原理には、ロールズが示す「平等な自由」、「平等な機会と格差原理」の二原理に加えて、「ケアと依存への社会的応答」という第三の原理を据えなければならない。だが、ロールズの二つの正義の原理のどちらからも、第三の原理へと進む自然な方法はないように見える。

*1:「現代の複雑化した社会においては、個人を訓練して「十分に社会的協働が可能な成員」にするためにほぼ20年の歳月がかかる。…また、寿命が長くなるにつれ、私たちの人生のうちの老年期の割合は次第に大きくなり、その期間は再び社会的協働が十分にできる成員ではなくなってしまう。さらには、医療の進歩にもかかわらず、アメリカの人口の約10%が重度の障碍を負っている。だとすると、私たちの人生のこの基本的な特徴が、「正義の環境」に含まれると考えるのは自然だろう。」pp.195-196.

問題関心:自由主義について

思想史研究者はしばしば、自分の研究対象の思想にシンパシーを覚える。かくいう自分もこれまで「自由主義」思想の研究をしてきたわけだが、他の思想と比較して、自由主義にもっとも共感を覚えている(もっとも自由主義それ自体、きわめて多義的なイデオロギーであるが)。自由主義の中心理念である、人権、多様性の尊重、自由を通じた社会秩序形成、といったものに惹かれる自分を自覚することができる。
 ともあれ、自由主義も完璧な思想ではない。とりわけ、(1)格差と貧困の放置、(2)公的領域からの女性の排除、(3)知的・精神障害者社会的排除、の三点は、自由主義の論理そのものから、歴史的に正当化されてきた側面が大きい。これらの社会的課題を、自由主義の放棄ではなくそのバージョンアップによって思想的に克服できるかを、今後も考えていきたい。そのためには、ミル、グリーン、ロールズらによる自由主義思想(リベラリズム)はもちろんのこと、上の三点それぞれの観点からの自由主義批判(社会主義フェミニズム、障害学およびケア倫理学)についても、深く検討していく必要があると感じている。

近況:紀要論文を書いています

久々のブログ。結局この夏はこまごました家のことや論文執筆に追われて、まったく更新できなかった。自分の要領の悪さ、仕事の遅さがいつもながらの課題。本当は7月に行ったイギリス理想主義ワークショップの記録も書きたいのだが…。それはまたいずれ。

執筆中の論文というのは学内の紀要論文で、これまでの研究とは少し趣を変えて、20世紀初頭イギリスの優生思想について、はじめてまとめてみた。はじめはカール・ピアソンについて書こうとしたけどうまくいかず、もう少し範囲を広げて、アルフレッド・トレッドゴールドやメアリ・デンディの知的障害者論について主に書いた。今日ひとまず第一稿を書き上げることができてほっとしている。しかし論文のクオリティは、自分で読んでも正直うーん、という感じ。新しいテーマなだけに、一次文献の読み込みがいろいろ足りてないし、構成も今いち。はじめの方のゴルトンやピアソンの話とかはいらないのかも。査読論文だったらおそらく大幅な修正を要求されるだろう。ともあれ、この論文を皮切りに、イギリス優生思想史についても今後さらに研究を深めていきたいと思っている。

来週から新学期が始まる。また授業と校務に追われる日々だが、実は論文の締め切りも12月と3月に一本ずつあって、なにげに忙しい。後期は授業数が例年プラス1の週7コマだし、健康を保てるかが不安。ここ数年は、仕事と家事育児の忙しさによる疲労と寝不足から冬に毎年体調を崩している(去年は帯状疱疹にかかり、おととしはインフルエンザに苦しんだ)。今年はそうならないことを願うばかりだ。

報告原稿を書いています

この2月3月はけっこう文献を読み進められました。学生の海外引率がこの冬はなかったことが大きいです。しかし肝心の執筆の方はあまり進まず、新年度の授業開始が見えてきた焦りから(貴重な研究期間が終わってしまう!)、ようやく3月後半から筆が進むようになりました。

7月に某所で報告をする予定なのですが、テーマに悩んだあげく、結局3つほど前の記事で今後の課題として取り上げた2つのテーマ(T.H.グリーンの倫理思想とイギリスにおける障害者の歴史)の合わせ技でいくことにしました。グリーンは知的障害について何と言っていたか、知的障害者の権利についてグリーンの倫理思想から何を言えるか、こういったことを考えつつ、いま報告原稿を書いています。

最初はちょっと強引な問題設定かな?と思いましたが、書き進めていくうちに、意外と面白いテーマであることが見えてきました。イギリス理想主義研究としては珍しいタイプの報告だとは思いますが…。聴いていただく方々にどのように受け止められるか、今から期待半分、不安半分です。