音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

個人的には今イチ−齋藤純一著『自由』−

自由 (思考のフロンティア)

自由 (思考のフロンティア)

大学で友人と読んだ1冊。「自由」をめぐる最先端の議論が幅広くまとめられている、とは思うのだが、いかんせん130頁のなかにいろいろ詰め込まれすぎていて、それぞれのテーマ間の関連性が必ずしも明確ではなく、消化不良を起こしてしまった。議論自体も、現実の社会問題や経済問題とはほとんど関連づけられず哲学的・抽象的に進められるため、慣れていない私には読み進めるのが困難な部分もあった。


具体的な内容に関しても、いくつか違和感があった。著者である齋藤純一氏のこの本での立場は、次のようなものだ。まず著者は、近代リベラリズムが「干渉の不在」として掲げた消極的自由の理念を問題にする。序盤に曰く、「消極的自由の概念には、近代の自由観の特性がはっきりと現れているだけでなく、それが個人に開かれる「選択の自由」を擁護しようとしている点で、今日語られる「自己選択」の自由との一定の親和性も認められる」(p26)


著者はこの「「自己選択」の自由」を批判する。それはこの自由概念の浸透によって、現代人が、他者との交流を回避してしまう人間になってしまったからである。著者曰く、「今日広汎に看取されるのは、他者から自らを引き離し、他者との交渉それ自体をできるだけ回避しようとする、そのような態度である」(p110)。また、「そうしたいわば自己隔離のもとで享受されうる「自由」には大きな損失がともなっている」(p111)。なぜなら、それは「自らと他者が共に生きる社会のあり方を自らの問題として受け止めるような公共的な感性を弱めていく」(p112)ことに繋がるからだ。


著者によれば、こうした事態を引き起こした要因として「重要なのは、現代の情報テクノロジーのもとでは、そもそも他者に出会わなくても済むような環境を構築することが容易になっている」(p110)という事実である。そうしたテクノロジーのもとでは、「自らの欲しない情報に人びとが受動的に接する機会を現象させ、自らとは境遇や生き方を異にする他者に接する回路を自ら閉ざしていく効果をもつ」(p110)。結果として、現代社会においては、「他者が直面する問題は、自らには関係のない「彼ら」の問題として視野の外に閉め出されることになろう」(p109)とのこと。


まずこの現状認識の点で引っかかった。本文では具体的な例示に乏しいのだが、ここで著者が想定している「情報テクノロジー」とは、主にインターネットのことを指しているように受け取れる。しかし、こういうネット社会批判は、やや一面的ではないだろうか。インターネットを通じて国際的な市民運動が組織されたり、または異なる意見が交換されたり(ブログとか)と、インターネットと公共性の関係には、もう少しポジティブな側面もあるような気がする。すなわち「情報テクノロジー」が、異なる他者と接する回路を、むしろ私達に新たに与えているという議論も、充分可能であるように思える。


もう1点。著者はこうした個人間の「分断」の傾向を、現代社会に特有の問題だと捉えているようだが、では、現代よりも人びとが他者の問題に対して、より同情的だったり、より積極的に関係性を持とうとしたような時代が、果たして過去に存在していたと言うのだろうか。これは歴史社会学的な問題だと思うが、具体的例証に乏しいので、こうした著者の現状認識に対しては、「現代の方が、過去よりも人々は分断されていると、言えるかもしれないし、言えないかもしれません」としか答えようがない。


ちなみに齋藤氏は、こうした消極的自由概念の隘路の突破口として、ハンナ・アーレントの政治的自由の概念による、「自由」概念の充実化の意義を強調している。アーレントの政治的自由の概念とは、簡単に言えば、政治的な場に参加して、異なる他者と、公の問題について話し合う自由のことを指している。この概念は、全体主義に対するアーレントの批判から展開されたものである。著者曰く、

「政治的なものが占める空間が小さくなればなるほど自由に残される領域は大きくなる」と見るバーリンら消極的自由観からの反全体主義の主張に反対して、アーレントは、「「政治からの自由」を剥奪することではなく、いわば「政治の自由」を剥奪し、人びとの間から「行為の空間」を取り去るところに、全体主義の成立と存続の条件を見出したのである。〔アーレントにとって〕自由は…自ら自身の言葉や行為によって他者から判断される関係性においてのみ享受されうる。」(p49)


全体主義に対する批判から自由の問題を考察したという点では共通するアーレントバーリンが、結論では正反対の自由観を持つという点は面白い。しかしアーレントの議論が出てくると即座に思い起こされるのが、同じ「思考のフロンティア」シリーズで市野川容孝氏が書いた『社会』の一節だ。そこには、「アレントが理想視する古代ギリシアの「政治的politikon」なものからして、奴隷制を前提としている。「政治的なもの」の中に脈々と流れる、この不平等という欺瞞にアレントは十分な注意を払っていない」(『社会』p.95)という、鋭い批判がある。古代ギリシアの「政治的自由」とは、市民−奴隷の身分関係に基づく強固な社会的不平等を前提とした、一部の特権階級のみが享受した「自由」に過ぎなかったというのが市野川氏の指摘である。『自由』のなかでは、こうした歴史的事実に関しての言及は見当たらない。しかしこの点を看過してアーレントを論じることに、果たしてどのような意味があるのだろうか。


社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)


最後に、こういう政治哲学系の議論での、「Aこそが正しい自由概念だ!」「いやBこそがより良い自由概念だ!」みたいな、真の自由って何?的な議論に対して、最近やや違和感を感じるようになってきた。哲学的議論としては意味があるのだと思うが、話が現実の社会や経済の状況から乖離してしまうと、だんだん社会科学とは言えなくなってきてしまう気がする(まあ政治「哲学」だから、別に「科学」であることにこだわる必要もないのかな)。個人的には、「何でこの時代には、この自由概念が影響力を持ったのだろう」的な問いの立て方の方が、好きだなと思った次第です。