音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

稲葉振一郎『経済学という教養』を読んだ

経済学という教養

経済学という教養


ゼミ発表の準備をしようと思って図書館に行ったが、気分転換に、と手に取った『経済学という教養』(稲葉振一郎著、2004年)という本が面白くて、つい全部読み通してしまった。本が借りられなかったので細かい感想は書けないが、戦後の福祉国家路線を批判してきたマルクス主義の経済認識が、政治的には彼らの対極にいたはずの「新自由主義」(ハイエクフリードマンなど)の経済認識と実はとても似通っており、それが現在の左翼の混迷の原因であるという指摘は、一理あると思った。また第1章のポストモダン批判などは、フーコーにハマりかけていた学部時代の私自身を省みて、身につまされる思いだった。


ただ本書での著者の基本的な立場には、いくつか違和感を持った。不況時の景気浮揚政策の重要性を強調する一方で、好況時の市場経済は「共存共栄の場」だとする著者の市場観については、まるで現実社会においても、あたかも好況時には「共存共栄の社会」が実現すると言われているようで、腑に落ちなかった。


それと関連して、市場経済における不平等は、景気の良し悪しに比べて重要でないという著者の論旨にも疑問を持った。不平等の問題は、この本ではほとんど議論されなかった諸問題、すなわち「世代間に渡る機会不平等や貧困の再生産」という社会学的問題や、労働現場における労使間の権力の不平等の問題(本書の言葉でいうところの「生産の政治学」の問題)、さらには「そもそも何の平等を問うべきか」を問題とする倫理学的問題など、経済学を超えてさまざまな分野にまたがって考えなくてはならない問題だと思う。これらの不平等の諸側面は、決して経済的好況によって不問に付すことのできるものではない。


まあこの本は、学問としての経済学の重要性を説いたものでもあるので、議論が経済学的な対象に限定されるのは仕方のないことであろう。しかしこのことは逆に、諸社会問題に対して、近代経済学がなし得る範囲の限定性をも示唆しているように思う。この本は、近代経済学が社会科学を学ぶ人にとって最低限「教養」として学ぶべき分野であること、しかし同時にそれだけでは、社会経済問題の認識にとっては決して十分でないという、当たり前だけど重要な点を再確認させてくれた。