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某大学教員の日記

誠実さの欠如した「お勉強」本−盛山和夫『リベラリズムとは何か』(一部追記あり)−

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

(2006年発行)


ゼミ発表に使えるかと思って一応通読したが、この本で展開される著者の現代リベラリズムに対する主張は、現代リベラリズムの問題意識に対する理解を欠如させた、きわめて不誠実なものと言わざるを得ない。著者は本書の前半でロールズの『正義論』および『公正としての正義』を「お勉強」ノート風にまとめた後、中盤でコーエンやドゥオーキン、ローマーといった平等主義的規範理論者たちを社会構築主義的観点から批判し、最後に現代リベラリズム全体を、文化相対主義的観点から批判する。しかしその批判の論理はいずれも表層的で、外在的なものにとどまっている。


著者の平等主義に対する批判を簡単にまとめれば、「不平等のどこまでが社会の責任でどこまでが個人の責任か」という平等主義者たちがこだわる区別など、「責任」という概念がそもそも社会的に構築されたものなのだから、本質的には不可能なことである、しかも無理にその区別を行って、社会的環境の平等化を推し進めようとすると、スティグマやら何やら、いろいろと付随的に好ましくない結果を引き起こす、だからやめましょうというものである。(第5章「責任-平等主義とリベラリズムの深化」)


また著者の現代リベラリズム全体に対する批判を簡単にまとめれば、私たちの社会には互いに相容れない無数の文化(キリスト教文化とイスラム教文化とか)が存在しており、それぞれの文化のなかで生きる人々は、それぞれ固有の論理に従って生きている、このように文化の価値は互いに相対的なものであるのだから、これらの諸文化に「普遍的」「超越的」に通用する道徳理論を打ち立てようとする現代リベラリズムの試みは不可能である、だからやめましょうというものである。(第9章「リベラリズムの誤算」)


こうした表層的な批判を展開されると、著者が道徳理論としての現代リベラリズムの問題意識を、全く汲み取っていないことが分かる。経済学者の塩野谷祐一氏も指摘していることだが、「異なった人間を何らかの点において平等と見なすこと」が「暴力としての正義」として、ある種の暴力性を孕んでいることは、現代リベラリズムにとっては百も承知の論点である(『経済と倫理』p86)。しかしその上でもなお、現代リベラリズムは、各人が自分の人生を自由に送る際に、どのような社会環境においてそうすることが「正義」にかなっているかを考えることに、学問的意義があると認識しているのだ。


ロールズらにとって、なぜ「正義」が問題になるのか。それは現実の社会に、「不正」(と彼らが考える問題)が存在しているからに他ならない。それは決して詐欺や贈賄といった個人的な不正だけではなく、むしろ経済的不平等や貧困といった、より構造的な問題である。こうした問題に対するロールズら道徳理論家の真摯な姿勢に対して、社会学者である著者盛山は、それらを一切考慮しようとしない。著者は、脳死問題やフェミニズム、宗教問題など、さまざまな「社会問題」を取り上げているが、現代リベラリズムがまず問題とする物質的、経済的な「社会問題」については、一切言及しないのである。これでは現代リベラリズムを扱う意味が無いではないか。


うがった見方をすれば、経済的不平等の問題を取り上げようとしない盛山の姿勢は、現代日本社会学全体の趨勢を反映しているのかもしれない。ポストモダン思想の隆盛以降、どうも日本の社会学には、相対主義的、構築主義的な考え方が、一部で浸透しすぎているような気がする。領域によってはそういうモノの見方は、非常に威力を発揮するものだが、相対主義構築主義は、一般に貧困や物質的不平等といった客観的、経済的な問題を論じることを避ける傾向があるし、また扱ったとしても、途端に論者をして現状維持的な態度を取らせてしまう傾向がある。日本でわりと名の知れた社会学者にまでそうした態度を取らせるこのような趨勢に、いちおう社会学の研究科に所属する身として、危機感を覚える。