音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

「惨めで最低の職か、それとも失業か。」選択肢は本当にそれだけか??


朝日新聞6月13日付の夕刊の「ブログ解読」というコーナーで、稲葉振一郎氏が「低賃金労働に裸で抗議」という題で次のような記事を書いていた。短い記事なので、全文を引用する。

低賃金労働に裸で抗議
2006年6月現在カリフォルニア大学バークレー校に留学中の、中国経済研究者梶谷懐のブログ「梶ピエールのカリフォルニア日記。」でこのところ話題になっているのが'sweat shop'、中国語で「血汗工廠」である。日本語で言えば「苦汗労働」、先進国向け輸出製品を安く作るために雇用されている、途上国の低賃金労働のことだ。梶谷は4月半ばのキャンパスで、大学のロゴ入りアパレルがこうした'sweat shop'で作られていることに(問題がアパレルだから?)裸で抗議する学生たちのデモに出くわし、透明レインコート一枚の女子学生に眼を白黒させた(4月19日)。

この段階では梶谷は、ニコラス・クリストフシェリル・ウーダンの「ニューヨーク・タイムズ」記事「'sweat shop'に万歳二唱」から「アジアの人々を助ける最も単純な手段は、スエットショップで作られた商品をより多く買うことで、買わないことではない」との意見を紹介、軽くいなした。実際経済学的に考えれば、先進国企業は本国より安価な労働力を、他方途上国の「低賃金」労働者は、実は現地の相場より「高賃金」の有利な勤め口を得られるわけで、少なくとも合法的な'sweat shop'においては、関係者みんなが利益を得ているはずだ。もちろん不法移民を奴隷的に酷使する悪質な業者も多数存在するだろうが、そのことをもって合法的な'sweat shop'までも否定する論拠にはできない。

これに対して社会学を学ぶ大学院生dojin(http://d.hatena.ne.jp/dojin/)は、経済学者ポール・クルーグマンのコラム「低賃金労働を称えて」を紹介する。クルーグマンによれば、'sweat shop'ボイコット運動の背後にある論理はこうだ−「先進国企業は『現地相場よりましな賃金』の支払で満足せず、『先進国並み賃金』を提供するべきではないのか?払えるはずの『先進国並み賃金』を支払わないことで、我々は彼らを搾取しているのではないか?」と。

しかし実はクルーグマンも、このような素朴な正義感に同情はするが賛同はしない。「仮に『先進国並み賃金』が実現したとすれば、途上国の低賃金労働の先進国にとっての魅力は消え、これらの雇用は途上国から失われてしまう」と指摘し、'sweat shop'ボイコットを「不当なひとりよがり」と断じる。

しかし善意の反グローバリストの間では、このような経済学的思考そのものへの懐疑が根強いから、「ひとりよがり」を正すには頭から「経済学を勉強しろ」では足りないか、あるいは逆効果だろう。ここでヒントを提供してくれるのが、梶谷の「現場主義」のすすめである。そもそも'sweat shop'ボイコット運動家たちは、当の'sweat shop'で働く人々が何を感じ、何を考えているのか、をどこまで理解しているのだろうか。梶谷が紹介する関西大学商学部長谷川伸ゼミを初め、(もちろん多くは先進的事例かもしれないが)'sweat shop'にインターンとして赴き、現地の労働者と共に起居し共に働く学生達が増加している。彼らが報告する、きつい労働に希望をもって挑む労働者たちの姿もまた、'sweat shop'の一面の真実である。


こういう議論は少し危険だと思う。稲葉氏が左派の啓蒙者として「経済学的思考」の重要性を説くのは良いのだが、行き過ぎると安易な現状維持論に陥りかねない。ミイラ取りがミイラになってしまってはならない。


確かにスエットショップのおかげで、労働者には現地相場以上の利益がもたらされ、彼らの生活が向上し、または一国全体の経済発展に貢献することもあるかもしれない。また「きつい労働に希望をもって挑む」労働者たちの姿も多々見られるのかもしれない。その意味ではボイコット運動の論理のなかにある種の短絡さが潜んでいることは、一面では真実であろう。


しかしそうした労働者の主観がどのようなものであれ、彼らの労働が、先進国のミドル・クラスの人々ならば誰もが御免蒙りたいと思うようなきついものであるという事実に変わりはない。そして企業が莫大な利潤を得た際も、収益性と同程度の賃金上昇が現場労働者にもたらされることはない。こうした苦汗労働、低賃金、不平等という構図は、果たして彼らの生活向上によって免罪されうるのだろうか。果たしてそれは「公正」だろうか?そこを問わない左派は、もはや左派と言えないのではないか。


同じことは現代日本についても言える。ある労働経済学者は、「タクシー運転車の過労と低賃金が問題になってますが、低賃金でなかったら彼らは失業してますから」と言っていた。先進国の労働者にしろ途上国のスエットショップ労働者にしろ、低賃金労働に従事する人々は現在、「惨めで最低の職か、それとも失業か?」という2つの選択肢の狭間でもがくことを強いられているように思われる。「選択肢はこれしかないのだ」と言われ続けながら。


経済的論理を考慮しない運動は確かに「不当なひとりよがり」である。しかし「低賃金(そして苦汗労働)か失業か」という選択肢を無批判に受け入れ、現状を肯定する型の「経済学的思考」もまた、もはや1つの保守イデオロギーに他ならないのではないだろうか。