音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

修論を終えて問われること


 私は修士論文では、ホブハウスという20世紀初頭のイギリスにおける代表的な自由主義思想家を取り上げて、その思想をできるだけ体系的にまとめることを試みたが、そこから分かったことは、ホブハウスの自由主義思想が、ジョン・ロック以来の自由主義的遺産を継承しつつ、ベンサムマンチェスター学派といった、いわゆる19世紀の古典的自由主義よりも、むしろイギリス福祉国家を支えた20世紀の社会民主主義の思想に、より近い性格のものであったということだった。実際、ホブハウスの政治思想は、T.H.マーシャルやR.H.トーニーといった、福祉国家を擁護した社会民主主義の理論家と、権利論や道徳主義的資本主義批判といった点で、共通した要素を持っていた。ホブハウスの政治思想をはじめ、福祉国家に親和的な思想を持っていたこうした自由主義は、「新自由主義」または「ニュー・リベラリズム」と呼ばれる。政治思想史研究において重要なことは、この新自由主義に注目することで、イギリスにおける自由主義Liberalismと社会主義Socialismの間に、福祉国家をめぐるイデオロギー的な連続性が見出されうるという点である。マルクス主義の影響力が無きに等しかった戦前のイギリスでは、資本主義がもたらす貧富の格差や失業、利己主義や拝金主義といった弊害を、道徳的に非難するトーニーら倫理的社会主義にしろ、その非効率性を経験的に証明しようとしたウェッブらフェビアン社会主義にしろ、イギリス社会主義は、国家の社会経済政策によって資本主義の弊害を改良していこうとする、漸進的な社会民主主義の枠内にとどまるものであった。


 イギリスのこうした事情は、異なるイデオロギー間の連続性を示すと共に、国や時代が異なるにつれて「いくつもの自由主義」や「いくつもの社会主義」の想定が可能であるということもまた示している。このことは、イデオロギー研究、またはより広い意味での、政治思想史研究が、常に各地域の地理的・時代的固有性を念頭に置きつつ、行われる必要があるということを、私達に教えてくれているように思う。


 だが、歴史研究としての政治思想史研究は、同時に社会科学の一分野として、現代の私達の社会に対しても実証的、規範的に一定の知見をもたらしうる理論の生成を、目指すものでもあるべきだろう。自由主義ブルジョワイデオロギーであり、一方、社会主義は革命的社会主義であるべきとする、教条マルクス主義的なイデオロギー観を安易に持つことは避けるべきだが、自由主義社会主義の歴史的多様性と連続性を認識した上で、改めて私達に問われるのは、歴史貫通的な自由主義の理論的本質であり、また同時に社会主義のそれである。しかし自由主義研究に限っても、このことは非常に難しい作業となることが、直ちに明らかとなる。なぜならこのことは、ロック、ベンサム、ミル、ホブハウスに留まらず、ハイエクロールズノージックらの現代自由主義の理論的共通点を探ることを意味するからだ。


 先週、修士論文の合同発表会があったが、そこで私が指導教官から投げかけられた批判も、「ホブハウスの自由主義が、社会主義とも親和的な、ヌエのような思想だったということは分かったが、自由主義の、社会主義と異なるその本質、さらにはその物質的基礎が何であるのか、君の論文では示されていない」というものだった。先生の指摘は考えすぎると何も書けなくなってしまう類の根本的なものであることが多いのだが、ここでもまた改めて大きな宿題を与えられた気分だった。しかし、こうした問いを投げかけられたことをきっかけとして、福祉国家の政策的担い手が自由党から労働党へとシフトし、労働運動も高まりを見せた戦間期イギリスにおける、自由主義社会主義イデオロギー的関係を、より詳しく追う必要があることを痛感した。修論を書いた段階では、今後は、先行研究で未だ十分に整理されていない、19世紀末の「イギリス理想主義」が新自由主義者に与えた思想的影響を追究しようという、やや消極的な研究計画しか持っていなかったが、戦間期の思想家であるトーニーやラスキといった社会主義者と、ホブハウスら新自由主義者の思想的関係を追うこともまた、イギリス自由主義研究として重要な作業となりそうだ。