音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

研究上の悩みあれこれ


「20世紀初頭のイギリス自由主義思想の変容」なんていうテーマの勉強をしていると、「何のためにそれを勉強しているのか」、「どのようにそれを勉強すべきか」という2つの問いに、常に悩まされる。前者は研究の意義についての悩みであり、後者は研究の方法についての悩みだ。


前者については、今日の政治思想や社会思想と呼ばれる分野で「自由主義」(リベラリズムでも良い)が問題にされる場合、20世紀初頭のイギリス自由主義思想が注目されることがほとんどないという事情が絡んでくる。思想に興味がある人は、リベラリズムと聞けば、たいがいは「ああジョン・ロールズなんかのことね」と思うだろう。または思想「史」という歴史的観点に興味がある人だったら、ロックやJ.S.ミルなども思い浮かべるかもしれない。


しかし20世紀のはじめにイギリス自由主義がどのような思想的経緯を辿ったかなどというテーマに興味を持つ人は、「イギリス経済思想史」やら「イギリス政治思想史」といった狭い分野でややオタク的な研究をしている人々を除けば、現在ほとんどいない。今日の「政治思想」または「政治哲学」という分野においては、自由主義論というテーマは圧倒的にロールズら道徳哲学の分野に占拠されており、そこでの所有権をめぐる抽象的議論などは、ある種の神学論争の様相すら呈している感がある。


私がこうした道徳哲学的自由主義論に特化しないのは、イギリスが好きだというそれこそオタク的好みを別にすれば、そもそもの問題関心が、哲学ではなくて社会学の次元にあったからに他ならない。しかし日本ではほとんど誰も見向きもしないテーマの勉強をしていると、次第に勉強の目的を見失い、「やってて楽しいから」という「お勉強の自己目的化」が頭をもたげてくる。これは自分の問題関心がはじめ現代社会に対してあったという事実からすると、非常によろしくない傾向だし、社会科学を学ぶものとしても、あまり褒められた研究姿勢ではないだろう。


なので常に意識せざるを得ないのは、「この研究をすることにどんな現代的意義があるのか」という問題だ。この点について、過去の自由主義思想を研究することの現代的意義は、大きく分けて2つあるという直観を持っている。1つは思想研究に内在した意義である。すなわち思想史の観点から、過去から現代に至る「自由主義」概念の歴史的な変容とその意味を分析できるという意義だ。もう1つは、思想研究に外在的な意義である。すなわちある社会-経済構造と、ある思想(この場合自由主義思想)の、双方の関係を理論化する際に役立つという意義だ。この後者の視点は、事実と価値の関係を問うものでもあり、イデオロギー研究や知識社会学などとも関わってくるだろう。


しかしいざこの「現代的意義」の問題に踏み込むと、たちまちそこで必要となる学問的知見の膨大な量に悩まされる。すなわち過去の自由主義思想を現代の問題にひきつけて充分に論じるためには、上で述べた道徳哲学はもとより、歴史学、経済学、イデオロギー研究、福祉国家研究、などなど、あらゆる社会科学の分野における知識が必要になってくる。もともと持っていた現代的な問題関心に、今の研究内容を関連づけようとした結果、こうした「学問分野の壁」にぶち当たるのだ。そして「オタク的研究」に安住しろという誘惑の声が聞こえてくる。まあそんな声には今のところ耳を貸す気はさらさらないが、ここから分かってくるのは、社会科学が扱う「社会」というものが、いかに複雑であるか、というごく当たり前の事実だ。


さてこうした「何のために勉強しているのか」という問題からいったん離れたとしても、次に、今扱っているテーマを「どのように勉強すべきか」という第2の問題に悩まされる。多分修士課程で多くの人が悩まされるのが、この「研究の視角、研究の方法」という問題だろう。社会科学的な問題意識は自分の中にある(だからこそ修士課程に進学したと言える)。しかし修士院生の問題は、それをどのような具体的テーマで、どのような角度から論じていくべきかという点にある。それがなかなか見つからないのだ。


私自身はというと、実を言えばまだこの段階にも満足に達してなくて、それ以前の、基礎的知識をひたすらお勉強している段階だ。しかしこれも社会学、経済学、倫理学、生物学など、多分野が混在する思想研究という分野の特徴と、英語ということばの壁のせいで、なかなか進まない。時間はいくらあっても足りないということを、年明けあたりからひしひしと感じるようになった。何か効率的な勉強方法はないかな。