音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

ジョン・ローマー教授の公開講義に出席


今日はもう1つ印象的な言葉を他の人からもらった。夕方、数理経済学者の吉原直毅氏が主催したジョン・ローマー教授の公開講義、題して「市場経済における平等の展望prospects for equality in market economies」が開催されたので行ってみたのだが、そこでのローマー氏の言葉である。以前の日記(下記リンク先参照)で取り上げた『マルクスの使いみち』でも中心的に論じられてたローマー氏は、イェール大学政治学部教授で、アナリティカル・マルキシズム研究の第一人者とされている。けっこう気さくそうなおじさんという印象だった。


公開講義の内容を私が理解した限りでまとめると、前半ではまず「市場社会主義」の所得分配モデル(ローマー氏はThe Proportional Solutionと呼ぶ)が検討され、例えそのモデルが実現したとしても、その結果は、アメリカにおける現実の所得分配状況よりも不平等になってしまうことが示された。この意味では、「社会主義的」所得分配は、不平等の克服にとって有効ではないとされたのである。


ここで想定された市場社会主義モデルとは、端的に言えば、資産を全面的に国有化し、その上で各人の「労働貢献度」に応じて所得を分配すると想定したものである(ローマー氏はこのモデルを「能力に応じて支払い、仕事に応じて受け取る'from each according to his ability, to each according to his work'と表現する)。ここで示されたことは、所得不平等をもたらす要因として、資産所得の不平等よりも、賃金所得の不平等の方がより深刻だということだった。


ローマー氏は続けて、今日の講義のポイントに移る。上記モデルの結果は、市場社会主義そのものの有効性を否定するものではない。重要な点は、モデルによって示された賃金の不平等が、一体何によってもたらされるかを考察することである。ローマー氏は言う。賃金の不平等は、主に人的資本(訓練や教育によって労働者に付加される価値)の不平等によってもたらされていると。人的資本の不平等が賃金の不平等をもたらすのは何故か。それは市場社会主義モデルにおいては、ある人の「労働貢献度」(=市場における労働の評価)が、その人の持つ人的資本の価値に比例するとされるからである。つまり同じ時間だけ働いた労働でも、それを可能にする教育、訓練に費やされた量のより大きい労働の方が、市場ではより高く評価されると想定されるのだ。


少し意外だったのは、この人的資本の不平等について、ローマー氏がこのあと経済学を離れて、社会学的(?)な考察を始めたことだった。人的資本の不平等、換言すれば教育機会の不平等をもたらす要因として、ローマー氏は当該社会における「リスクの同質性risk homogeneity」の弱さを指摘したのだ。


「リスクの同質性」とは何か。私が理解した限りでは、それは当該社会の構成員が、自分たちがほぼ共通した社会的・経済的リスクを負っていると感じる、「共通感覚」のようなものである。リスクに対して「同質的、共有的な感覚」が大きい国、例えばスウェーデンなどの北欧諸国では、リスクは国民みんなで共有し、分散するものと理解され、結果的により平等志向的な公的福祉政策が選好されるとのこと。逆にアメリカのように、人種差別を初めとする「文化的敵対関係cultural antagonism」が強い社会では、この「リスクの同質性」は非常に低く、結果として公的福祉政策に対する消極性が育まれると言う。(ちなみにローマー氏は、「日本のことはよく知らないけど、アメリカよりもずっと同質性が強くて、平等志向的だよね」と言っていたが、必ずしもそんなことはないと思う。)


ところで、このリスクの同質性はどのように高めることができるのだろうか。ローマー氏によれば、それはいくつかの経済的・社会的「危機」によって、歴史的に高められてきた。例えば1929年に勃発した大恐慌と、その直後に制定されたアメリ社会保障法の関係や、第二次世界大戦とヨーロッパでの福祉国家体制の出現の関係などに、「リスクの同質性の高まり」を見ることができるという。


結論でローマー氏は言う。「全く望ましいことではありませんが、新たな世界大戦や大不況が(リスク同質性を高めて各人をより平等志向的にすることには)、役立つかもしれません。リスクの同質性を高めるという点に関して、アメリカでは過去30年間、右派イデオロギーの台頭のせいで、事態は全く悪いものでした。さらに悪いことには、所得の不平等を克服するために今よりも社会的連帯感solidarityが必要であるのに、左派はこの点を理論的に考慮してこなかったのです。」


今日の講演はもっとばりばりの数理経済学的な内容になって、きっとあまり理解できないんだろうなと思っていたので、こうした議論のまとめ方は少し意外だった(一緒に出席していた友人によれば、今日は一般向けの公開講義だったからこういう内容になったのでは、とのこと)。質疑応答で1つ興味深かったのだが、出席していた日本の経済学者の質問の多くは、平等とインセンティブトレードオフ関係についてであった。それに対してローマー氏は「私はこの分野の専門ではないが」と断りつつ、平等とインセンティブが必ずしもトレードオフの関係にはないということを、北欧諸国や途上国の生産性の向上などを例に挙げつつ、主張していた。


私は最近、インセンティブと平等のトレードオフ関係の強調や、それに伴う「国内で平等を志向すると、大企業が海外へ逃避してしまう」とか、「労働者が怠けて働かなくなる」とかいった、所得不平等を正当化する言説に対して、やりきれない思いを抱いていた。でも今日のローマー氏の講演を聞いて、少しそうした言説を相対化することができた気がする。上記の「リスク同質性」についてなど、いろいろ聞きたいことがあったので、勇気を出して講演後にいくつかローマー氏に質問しにいった。「リスクの同質性」を高める手段が、大不況と世界大戦だというのは、あまりに悲観的ではないですか?と聞いたら、「それは社会学を勉強してる君がもっと詳しく分析してくれ、ハハハ」と、お茶を濁された…。でも最後に、「富裕層に課税すると、それだけ彼らの利潤追求インセンティブを損なうという議論がありますが、あなたはそれに賛成しないのですね」と聞いたら、「もちろん賛成しないよ」と、力強く、笑みをたたえながら答えてくれたのが印象的だった。何か少し、勇気づけられた。


以前書いた関連記事:『マルクスの使いみち』を読んだ(http://blog.goo.ne.jp/nicholasnickleby/e/0c22b6bb8ca9aa8ff9000d5a2c9af90c