音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

イギリス経済学史のワークショップに参加


今日は副ゼミの先生が主催したワークショップに参加した。
特別企画とのことで、ケンブリッジ大学のマーティン・ドーントン氏や
エウジェニオ・ビアジーニ氏、バーミンガム大学のロジャー・バックハウス氏など、
イギリスからも研究者が何人か来て報告していった。
テーマは「ケンブリッジ学派の経済学」というものだったが、
ちょっと退屈な学派内の細かい話から、自由党政治史の話、
福祉の経済思想の話など、各発表者の内容はバラエティーに富んでいて、
なかなか楽しかった。


ただこういうワークショップでのプレゼンテーションとなると、
研究内容の優劣の他に、パワーポイントのまとめ方とか、
効果的な話し方とか、内容の分かり易さとかによって、
ずいぶんその場での発表者への評価というか、印象が変わると思った。
こういうプレゼンの技術というのも、これからもっと意識していかないとな。
発表者へのコメントを述べる人にも、発表された内容を発展させることよりも、
全然関係ない自説を長々と論じる人がけっこういて、そういうのは
ダメダメだと思った。あと英語が使われたせいもあるけど、
日本からも結構有名な研究者が何人か参加していたのに、
ディスカッションが主にイギリスの研究者どうしで
行われていたのがちょっと残念だった。言葉の壁は厚い。。。


帰りに息抜き(?)に、森村進氏の『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』を読み始める。
入門書のせいかもしれないが、自己所有権の概念など、この本の議論は、基本的にすごく分かり易い。
その分かり易さは、リバタリアニズムそのものの分かり易さだろうか?
でもそれが逆にひっかかる。次の文章とか。

リバタリアンの観点からすれば、経済的自由は人身の自由や表現の自由や信教の自由などと同様、個人的自由の不可欠の一部である。経済活動が芸術活動や宗教活動に比べて尊重に値しないなどということはない。精神的自由を重視しながら経済的自由を軽視する左翼も、経済的自由は尊重しながら精神的自由を尊重しない右翼も、共に首尾一貫しない立場である。(p.16)

大部分の技術は、最初は金持ちの贅沢品として始まり、その進化とともに万人の必需品になったのである。貧しいために新しい技術を利用できない人がいるということを気にしていたら、人類はいつまでたっても文明生活ができなかっただろう。(p.65)

今日の日本で臓器売買がほとんど存在しないのは、日本人がそれだけ豊かだからである。開発途上国に臓器を売る人々がいるのは、彼らが貧しいからである。彼らに対してすべきなのは、彼らが(充分な情報に基づいて)臓器を売ることをわれわれの価値観に基づいて禁止して彼らが困窮から抜け出す機会を奪うことではなくて、市場経済への障壁を廃止して彼らを豊かにすることである。(p.70)

うーん何か身もふたもないなあ。。。


自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

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