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某大学教員の日記

塩野谷祐一著『経済と倫理』

経済と倫理―福祉国家の哲学 (公共哲学叢書)

経済と倫理―福祉国家の哲学 (公共哲学叢書)

まだ半分しか読んでいないが、著者の博学な知識が遺憾なく発揮されていて、とても勉強になる一冊だ。

前半の「理念」篇では、現代道徳哲学における4つの立場、功利主義、社会契約主義、自由至上主義リバタリアニズム)、共同体主義コミュニタリアニズム)の関係がそれぞれ整理されている。個人的には、所有権の概念をめぐるロールズノージックの認識の違いが興味深かった(第3章第2節)。所有権に対する双方の認識の相違は、自由に対する認識の相違へとつながっている。


著者の問題意識も野心的である。『経済と倫理』という題名から窺えるように、本書では、個々人がそれぞれの人生において追求しようとする「善」(=快楽、幸福、福祉、健康、心理、名誉、権力、富裕、美、友情など)が、「経済の世界」(=財の配分における「効率」が問題とされる世界)および「倫理の世界」(=社会的秩序のための「正義」が問題とされる世界)、双方の世界との間でインターフェイスを形成するという認識のもと、より良き「善」の実現に向けた「効率と正義との関係を問う」(p47)という問題意識を持つ。


しかしこれだけでは「資本主義経済において正義はいかにして可能か」といった類の、ロールズ的問題関心に留まる。著者の発想がユニークであるのは、ここに「卓越」という概念を用いることで、「効率(経済)−正義(倫理)」の図式内において、個々人の「存在」そのものの「質的向上」もまた図るべきとする点である。この問題意識は、アリストテレスの「徳の倫理学」、およびそれを現代において発展したマッキンタイアの共同体主義に依るものである。


「卓越」の内容について、著者は次のように述べる。

卓越主義は、「良き生」は人間本性を構成するさまざまな特性を発展させることであると考える。こうすることによって、人間的卓越、人間的繁栄、自己実現が達成される。・・・(中略)・・・個人の卓越性の最も顕著な側面は、社会的活動において秀でた能力を発揮し、シュンペーターの言う「イノベーション」(革新)を生み出すことである。彼のこの概念は、もともと社会のさまざまな領域に一般的に妥当するもととして考えられた。具体的には、経済、政治、学問、芸術、技術、文化、道徳など、さまざまな社会的活動の領域が区別される。(p133,135)


この「卓越」の概念は、「正義」の概念と並んで、経済世界を倫理学的観点から相対化させるという本書の議論において、核の部分を占めている。と同時に、本書の独自性はかなりの部分、この「卓越」の議論に依っていると思われる。しかしながら読んでいて、この概念に関していくつかの点で疑問が湧いてくる。第1に、著者は具体的にどのような「手段」によって、個々人の「卓越」を実現させようと考えているのか、「理念」篇を読む限りでは、今ひとつ判然としない。ロールズ的「正義」の理念に関しては、著者が「〔正義の理念は〕社会保障制度の根拠を与える」(p72)と述べているように、社会保障という手段によってある程度は実現されているものと考えられる。しかし「卓越」の理念に関しては、どのような手段で、どの程度の強制力を伴ってその社会的実現を図るのか、そうした具体的な議論はここでは成されない。ゆえに著者が言うように卓越性を「社会的機能」(p136)と捉えた際に、その評価が困難である。


第2に、実現すべきとされる「卓越」の内容が、抽象的次元に留まっており、判然としない。唯一挙げられた具体例として、上記引用文のシュンペーター的「イノベーション」があるが、これだけだと即座に、「では社会的活動において秀でた能力を発揮しない(できない)人生は、「良き生」ではないのか」という疑問が湧いてくる。全体として、他の経済的、倫理的視点と比した際の「卓越」概念の意義および両立可能性についての議論は緻密に展開されているが、卓越の内容それ自体については、踏み込んだ議論が展開されていないという印象を受けた。


とはいうものの、ロールズやセン、共同体主義の各理論を応用しながら市場経済の論理を相対化しようと試みる著者の問題意識からは、学ぶ点が多い。下記の評者の1人が言うように、本書はまさに「塩野谷理論の集大成」であり、その全体系の理解のためには、読み手側の広範な知識が必要とされる(私自身難しい!と感じる箇所がちらほら)。手元に置いて随時読み返していきたい一冊である。


ウェブ上で専門家が書いた書評をいくつか見つけた。以下では今田高俊、小林正弥、森村進の3氏による書評および著者塩野谷祐一氏による前2者への回答が読める。
http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/public-philosophy-shohyou.htm