音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

教えることと育てること

二か月以上もブログの更新を怠ってしまった。四月からは大学での非常勤講師の仕事と、生まれてきた子どもの世話に追われ、研究を含め他のことにほとんど手が回らなかった。自戒を込めつつ、まずはブログを更新することにする。

大学では三科目を週五コマ教えている。初めて教壇にのぼる身としては、多すぎず少なすぎず、ちょうど良い量かと思う。だが、まだなかなか要領がつかめず、授業の準備に思った以上の時間が取られてしまう。研究時間を確保するどころか、十分な睡眠時間も取れず、週末にまとめて寝ているという状態。これはさすがにいけないと思っている。

授業自体は、論文執筆とはまた違う面白さと難しさがある。時間をかけて準備した方が、そうでない時よりも良い授業ができる。それは当たり前だが、かと言って、時間をかければ必ず良い授業ができるというわけでもない。こちらの気合いや思い入れが空回りしてしまい、学生さんを置き去りにしてしまうこともある。一方的な授業にするのでなく、なるべく質問や対話を取り入れて、学生さんの関心や理解の程度を常に把握しておくことが大切なのだろう。

だが授業にもまして自分の生活時間の多くを占めるようになったのは、子育てである。想像以上というほどではないが、やはり大変だ。仕事以外の時間は、育休中の妻と二人で家事と育児を分担して、それでどうにかやれているという感じ。世の中の多くの家庭では、しばしば夫の仕事が忙しく、妻が一人で育児を担わなければならない。それがどのようにして可能なのか、正直、今の自分には想像がつかない。

うちの子がとりわけ手がかかる、というわけではないと思う。夜はちゃんと寝てくれるし、始終泣いているというわけでもない。それでも子どもができて自分の生活スタイルは大きく変わった。自由な時間が物理的に減ったことはもちろんだが、自分で一日の予定を立てて動くのではなく、子どもの都合に合わせて動く、ということを学んだ。

たとえば、いま子どもはミルクを飲んでいるので、次のミルクまで二時間は大人しくしてくれるだろう、その間に自分たちの夕飯を用意して、本も一時間くらい読もう、などと考えていても、子どもはそんな親の期待通りには動いてくれない。赤ん坊というのは、泣きたい時は特に理由が無くとも泣くようだ。抱っこをすると少し収まるので、そんなときは夕飯の用意や読書を諦めて、抱っこに専念しなければならない。そうしているとすぐにまた次のミルクの時間がやってくる。うんちもしているようなので、おむつも換えなければならない。鼻水も溜まっている。そろそろお風呂にも入れなければ・・・と際限がない。ケアというのは、何よりもまず自分の時間を犠牲にすることなのだということを、肌身で感じた。 
日常の育児に関して、しばしば私と妻の意見が異なる場合がある。どれだけ子どもを抱っこしているべきか、どんな育児用品を買うべきか(あるいはレンタルすべきか)、病気にかかった時に、どの病院にいつ連れていくべきか・・・等々。お互いにそれなりに自分が正しいという根拠をもっているので、合意に達するまで、それなりに時間をかけて話し合わなければならない。二人とも基本的には、子どもにとって何が最善か、という観点から意見を述べている。ただ難しいのは、それだけではないということだ。経済的な負担とか、自分が休める時間をどれだけ確保できるかなど、子どもの利害以外にも、家族全体の利害や、自分自身の利害も考慮に入れられる。そうしたいろいろな観点や利害がないまぜになった結果として、一つの意見が表明される。よってどの次元で意見が食い違っているのか、夫婦間で理解し合い、何を行うべきかを最終的に決定するのに、いつも時間がかかってしまっている。

これは言ってみれば、妻と私のあいだで子育てをめぐって「政治」が行われているということではないだろうか。政治を集合的な決定に至る民主的な討議のプロセスとみなすならば、そう言えるように思う。最も親密な関係性である「夫婦(または親、そして親が「代表」する子ども)のあいだ」にも、政治の契機は存在する。政治学の領域で言われ続けてきたことではあるが、今ならば実感を伴って理解できる気がする。