音楽友に、今日も安眠

某大学教員の日記

論文「バスに鍵はかかってしまったか?」(岩田正美)より


今日読んだ「思想」の2006年3月号「特集・福祉社会の未来」のなかの岩田正美論文「バスに鍵はかかってしまったか? 現代日本の貧困と福祉政策の矛盾」に、いくつか重要だと思われる指摘があった。昨日書いた「ネットカフェ難民」に関する記事(http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20070130)の内容とも、もろに関連している。


ここで岩田氏は、フリーター/ニートと呼ばれる若者とホームレスの関係について次のように論じている。

日本でフリーターやニートがホームレス化しないのは、すでに明らかなように親との同居率が高いからである。また、非正規雇用ならば雇用される可能性が中高年齢層より高いからであろう。だが、親そのものの貧困が深ければその同居は不安定なものとならざるを得ず、その結果一人で生きていくフリーターの出現となることもありうる。最近、親元に頼れない若者目当ての格安の宿舎が出現して人気を呼んでいるとの報道もある(『朝日新聞』2005年7月11日夕刊)。直ぐ後で述べるように、簡易宿舎や労働住宅に滞留してきた層を1つの源としてホームレスが生み出されていることを考え合わせると、特に貧困な家庭を基礎として生まれるニートやフリーターは、早晩欧米のようにホームレスとして路上に現れる可能性も否定できない。(p.145)


「フリーター」や「ニート」概念の妥当性の問題はともかくとしても、やはり、と思ってしまう。岩田氏はさらに、格差や貧困問題に対する政策側の態度の問題を指摘している。

日本では貧困の固定化や排除よりも、<不安>一般への眼差しが圧倒的に強い。それはおそらく、日本における政策介入の正当性が、問題量の増減に強く引き寄せられているからであろう。ちっぽけな固定的貧困(注:ライフコースを通じてずっと貧困状態にあること)などは、たとえ存在していたとしてもたいしたことはない、という見方である。あるいは、少数者の固定的貧困を強調してしまうと、かえって貧困の中にある人への差別を助長してしまうのではないかという危惧の影響も若干あるかもしれない。多数を基盤とした観念的平等主義が、かえって貧困や排除の存在そのものに蓋をしてしまうのである。このため、格差問題は現実の貧困や排除としてよりも、「中流生活からの脱落」不安として提起されやすくなる。(p147)


貧困の固定化が「福祉国家の失敗を明確に意味している」(p.147)にも関わらず、こうした政策側の視点と相俟って、肝心の固定的貧困層への政策的援助がなかなか進んでいないと岩田氏は結論づけている。


岩田氏のこうした指摘は、政策を作る人々に関してのみならず、日本のマスメディアについても当てはまるだろう。例えば「フリーター・ニート問題」をメディアが論じる際、それがいったいどの程度、「フリーター/ニート」として語られる当事者自身の目線から問題を眺めているだろうか。そう考えると、改めて昨日の記事で書いた、NNNドキュメントの良さが分かってきた。