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某大学教員の日記

同性愛をめぐる価値対立をリベラリズムは克服しうるか?−論文「リベラリズムの困難からフェミニズムへ」 (岡野八代)を読んで−

フェミニズムとリベラリズム (フェミニズムの主張)

フェミニズムとリベラリズム (フェミニズムの主張)

(2001年発行)


ジェンダーの授業で、先生に勧められて読んでみた。岡野論文は本書の第1章。フェミニズムリベラリズムと共有すべき点と、それでもなおフェミニズムリベラリズムを批判しなければならない点がそれぞれ明快にまとめられていて、なかなかエキサイティングな論文だった。岡野氏のリベラリズム批判の論点は2つあって、議論の中心は1つ目にあるのだが、そこでの岡野氏のリベラリズム理解が充分なものとは思えなかったために、あまり説得力を感じなかった。むしろ個人的により重要だと思ったのは、岡野氏が数頁ですませてしまった第2の批判点である。


とりあえず第1の点にも簡単に触れよう。ここでのリベラリズム批判の論拠は、リベラリズムが個々人の「身体」の差異がもたらす不平等を考慮しないという点である。例えば財と形式的な機会(法的身分等)が同じ条件である私とあなたの間で、私が妊娠したシングルの女性であり、あなたが同じくシングルの男性である場合、男性であるあなたは妊娠・出産・養育をする必要がないために、「自らの財と機会を利用し、それを自らの善き生へとつなげる能力にわたしよりも長けている」(p.17)。岡野氏は身体的差異のもたらすこうした不平等を例示しつつ、「リベラリズムにおいて、「自然における」相違の結果生じた不平等は政治が介入し是正しなければならない社会的不正義とはいえない、といった議論は、これまで繰り返されてきた」(p18)と指摘し、「身体的差異の持つ社会性」を考慮しないリベラリズムを批判する。


しかしここで岡野氏がリベラリズム批判の論拠として頻繁に依拠するのは、アマルティア・センの潜在能力概念である。でもそもそも、センもまたリベラリズムに位置づけられるんじゃなかったっけ?現代リベラリズムが「機会の平等」を考える際には、身体的差異の不平等のみならず、生育環境の不平等とか所得の不平等とか、さらには運-不運の問題とかまでも考慮に入れているはずで、上のような古典的自由主義像からはかなり異なる平等論を、現代リベラリズムは展開している。注の部分で岡野氏は、「ロールズ以降、道徳的観点からすれば身体的所与もまた社会的正義を考えるさいに考慮すべき相違である、と主張するリベラリズムも存在することは、注記しておかなければならない」と付言してはいるが、この論文では、ロールズ以降の「現代リベラリズム」が直接批判の対象となっている訳ではない。


個人的により重要だと思われるリベラリズム批判は、第2の点である。ここでは、リベラリズムによる行為の正当化の根拠が、常に「個人がその行為を選択したという事実」そのものに求められ、選択された行為の善し悪しは問われないことの問題点が、共同体主義者サンデルの議論に依拠しつつ指摘されている。

サンデルが指摘するリベラリズムの自己矛盾とは、つぎのことである。リベラリズムは、諸個人の善には介入しない。なぜなら、諸個人にとっての善の構想は誰にも侵害される<べき>ではない高邁な構想である<べき>であるから。しかし、中立性という要請を重視するあまり、彼女/かれが選択「した」という事実のみに個人の尊厳の根拠を求めてしまう、といった逆説にリベラリズムは陥ってしまう。諸々の多様な善を尊重するがゆえの国家の中立性が、逆に、その善の内容はどうあれ、彼女が選択したのだから−たとえ、その善の構想が多くの人にとっては卑しいものであっても−尊重しよう、と。(p.23)


私がAという行為を選択することをリベラリズムが正当化しうるのは、Aという行為の持つ内在的な価値のためではなく、「私がそれを選択したから」である。すなわちあくまで「私個人」の「自由な選択」に、行為の正当性が付与されるにすぎないのだ。こうした論理の問題点は、例えば次の点にある。リベラリズムにとって、同性愛のパートナー関係の「自由な選択」は肯定されるべきものである。しかしその根拠は、同性愛という関係の持つ価値そのものに求められるのではなく、あくまで「私」が「自由」にそうした関係を「選択」したことにある。これによって例え同性愛関係が制度的に肯定されたとしても、「同性愛は卑しいもの」とするこの社会における支配的価値観に関しては、何ら変化がもたらされることはない。サンデルによれば、この点がリベラリズムの「自己矛盾的困難」なのである。


このリベラリズム批判は、説得力がある。ここで問題とすべき点は2つあるように思われる。すなわち

1.「善」の内容を問わないリベラルな社会を、道徳的に肯定できるか。
2.上記1のような社会はそもそも可能か。すなわち対立する「善」の構想を誰もが満足するかたちで調停し、社会的共存を実現することは可能か。


上記サンデルのリベラリズム批判の論点は、1を指すものであるように思えるが(つまり同性愛差別的な価値観を温存したままでの同性愛関係の制度的肯定は、あるべき社会のあり方なのだろうかという問い)、同時にこのことは上記2の問題にも通じると思う。リベラリズムに則る限り、我々は「同性愛関係を築き、そのことで社会的に差別されないことが私の幸福だ」というAさんにとっての「善」も、「同性愛カップルを見ると身の毛がよだち、精神的苦痛を受けるので、そうした関係を社会的に認めないことが私の幸福だ」とするBさん(「さん」など付けたくないが)にとっての「善」も、共に「個人の高邁な善の構想」として、ひとまず肯定されなければならない。その上でリベラリズムは、こうした対立した「善」の価値観を持つ人々が社会的に共存できるような「正」の論理を制度的に擁立しなければならない。だがその際に、どのような共存のあり方が可能なのだろうか。いったい双方ともに、「これなら許容できる」と思える程度の共存のあり方は、制度的に可能なのだろうか。


(イギリスでは最近、同性愛カップルの宿泊を拒否したホテルやゲストハウスに対して罰則を課すことを定めた法案をめぐって、「同性愛を認めない信条が尊重される権利」を主張した諸宗教団体が抗議運動を行った。これもまさしく「対立する善の構想」が引き起こす、現実的な問題だといえよう。http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/6243323.stm


この問題に対する私個人の現時点での考えは、「双方が満足する」かたちでの完全な調停は不可能だが、公正と認められうる社会的共存の実現のためには、同性愛の人々により望ましいと思えるような制度的介入が必要である、というものである。ここで「他人に危害を加えなければ個人がどのような行為を選択しても自由」とするリベラリズムの「危害原則」(J.S.ミル)に則れば、ここでの課題は、他者の行為によって蒙る危害の程度を個人間で等しくすること、言うなれば「危害の平等」の実現であろう。同性愛者への理解が乏しい社会の現状に鑑みれば、同性愛反対のBさんの立場を尊重することでAさんが蒙る精神的・経済的危害は、同性愛者であるAさんを尊重することでBさんが蒙る危害よりも、はるかに大きいことが推測される。


もちろんこうした考えには、様々な困難がつきまとうだろう。「危害の不平等」をどのように具体的、実証的に測りうるか、また「精神的苦痛」といった主観的な問題を、異なる個人間で通約可能なものと考えて良いのか、といった技術的・理論的問題など。しかし前者の技術的問題に関してはともかく、後者に関しては、リベラリズムは主観的「善」の通約可能性を、議論の前提としているようである。その場合、財を重視するのか、効用か、それとも潜在能力か等々、強調点の置き場は論者によって異なるようではあるが。


ここでは主に上記2の問題について少し考察したが、サンデルのそもそもの批判の論点は1点目、つまり「そもそも同性愛差別的な価値観を温存することを、リベラリズムは肯定するのか」という問題だった。これも非常に深刻な問いであるので、常に考えていきたいと思う。後半から岡野論文の主旨とは全く離れてしまった…。